2008年12月31日
人生のジグソーパズル
エッセイ集
人生のジグソーパズル
一億年の流転の果てに
prologue
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310518.html
piece1 二十歳の航海 コンパスなき旅の始まり
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310520.html
piece2 父の思い出 老船の長き航海の終り
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310523.html
piece3 十七歳の彷徨 大人へのパスポート
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310541.html
piece4 寛容と許し 僕らは人を本当に愛せのるか
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310550.html
piece5 星とアンモナイト 一億年の流転の果てに
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310557.html
piece6 「母なるもの」 マーヤーという名の幻
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310561.html
piece7 生命を突き動かすちから 紫陽花の生死
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310565.html
piece8 砂漠の海図 いつの日か金斗雲に乗って天竺へ
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310569.html
piece9 不幸半分、幸福半分 姉の涙
http://fuyumi2.ti-da.net/e2537999.html
piece10 あの日のこと、僕の1月17日 神戸にて
http://fuyumi2.ti-da.net/e2320647.html
piece11 家族の絆 変わるもの、変わらぬもの、
一生を貫くもの、転生を貫くもの
http://fuyumi2.ti-da.net/e2389604.html
piece12 母の人生 そのかそけき一輪の花に――
http://fuyumi2.ti-da.net/e2615496.html
piece13 さくらさくら 妻の面影
http://fuyumi2.ti-da.net/e3594508.html
piece14 僕らの人生は幻か
最後に残るのは記憶という名の実体
http://fuyumi2.ti-da.net/e3603771.html
piece14 五十歳を過ぎたら生き方を変えろ
灰にならぬものを追い求めるのだ
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310572.html
epilogue
http://fuyumi2.ti-da.net/e2555055.html
人生のジグソーパズル
一億年の流転の果てに
根岸冬生
prologue
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310518.html
piece1 二十歳の航海 コンパスなき旅の始まり
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310520.html
piece2 父の思い出 老船の長き航海の終り
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310523.html
piece3 十七歳の彷徨 大人へのパスポート
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310541.html
piece4 寛容と許し 僕らは人を本当に愛せのるか
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310550.html
piece5 星とアンモナイト 一億年の流転の果てに
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310557.html
piece6 「母なるもの」 マーヤーという名の幻
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310561.html
piece7 生命を突き動かすちから 紫陽花の生死
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310565.html
piece8 砂漠の海図 いつの日か金斗雲に乗って天竺へ
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310569.html
piece9 不幸半分、幸福半分 姉の涙
http://fuyumi2.ti-da.net/e2537999.html
piece10 あの日のこと、僕の1月17日 神戸にて
http://fuyumi2.ti-da.net/e2320647.html
piece11 家族の絆 変わるもの、変わらぬもの、
一生を貫くもの、転生を貫くもの
http://fuyumi2.ti-da.net/e2389604.html
piece12 母の人生 そのかそけき一輪の花に――
http://fuyumi2.ti-da.net/e2615496.html
piece13 さくらさくら 妻の面影
http://fuyumi2.ti-da.net/e3594508.html
piece14 僕らの人生は幻か
最後に残るのは記憶という名の実体
http://fuyumi2.ti-da.net/e3603771.html
piece14 五十歳を過ぎたら生き方を変えろ
灰にならぬものを追い求めるのだ
http://fuyumi2.ti-da.net/e2310572.html
epilogue
http://fuyumi2.ti-da.net/e2555055.html
2008年12月15日
prologue
prologue
僕は、四十二歳から八年間、まったく筆を折った。そして、五十歳になったときに、もう一度、表現者として生きてみようと思った。その経緯はおいおい説明するが、もし、いつの日か、僕が死んで、神様に呼び止められて「お前は一生を生きてみて、何を学んだのかね」と言われたら、どう答えるだろう。そう考えたら、僕には答えがなかったというのが、その理由である。
本来、すべての芸術は、その発生の原点において、神を介在するものであったはずだ。それは神との対話であったり、神の創られた世界の表現であったのだ。神という言葉が理解を妨げるならば、この世界をこの世界あらしめている仕組みといってもいい。僕の生きる意味といってもいい。だとするならば、すべての作品は、その人間の人生の答えと言ってもいいのだ。
口幅ったい言い方になってしまうが、僕にとって人生を賭けるべきテーマを一言でいってしまえば、「人間の幸福とは何なのか」というということなのだ。僕が生きてきた人生の中でキャンバスに描くこれらの絵は、もちろん、僕という人間の個人的事情によって描かれたものだが、それが僕が答えられる幸福のかたちなのだ。
真理というのは、その全体像を見極めることは不可能に近い。僕らはそのかけらを人生の途次に垣間見る。そこから僕らのジグソーパズルが始まる。最後のピースをはめ終えたとき、それは一枚の絵となるはずだ。その絵が、駄作なのか、傑作なのかは、描き上げた本人にはついぞ判断ができぬものなのかもしれない。
この小片は、僕が死んだあとに神様に提出する卒業論文の一項目とするつもりで書いたものだ。もしかしたら、その稚拙さに神様は苦笑するかもしれない。僕自身、顔から火が出るような羞恥心を覚えるのかもしれない。
しかし、自分自身の人生の責任として、これが等身大の僕の姿なのだと思うしかない。
僕は、四十二歳から八年間、まったく筆を折った。そして、五十歳になったときに、もう一度、表現者として生きてみようと思った。その経緯はおいおい説明するが、もし、いつの日か、僕が死んで、神様に呼び止められて「お前は一生を生きてみて、何を学んだのかね」と言われたら、どう答えるだろう。そう考えたら、僕には答えがなかったというのが、その理由である。
本来、すべての芸術は、その発生の原点において、神を介在するものであったはずだ。それは神との対話であったり、神の創られた世界の表現であったのだ。神という言葉が理解を妨げるならば、この世界をこの世界あらしめている仕組みといってもいい。僕の生きる意味といってもいい。だとするならば、すべての作品は、その人間の人生の答えと言ってもいいのだ。
口幅ったい言い方になってしまうが、僕にとって人生を賭けるべきテーマを一言でいってしまえば、「人間の幸福とは何なのか」というということなのだ。僕が生きてきた人生の中でキャンバスに描くこれらの絵は、もちろん、僕という人間の個人的事情によって描かれたものだが、それが僕が答えられる幸福のかたちなのだ。
真理というのは、その全体像を見極めることは不可能に近い。僕らはそのかけらを人生の途次に垣間見る。そこから僕らのジグソーパズルが始まる。最後のピースをはめ終えたとき、それは一枚の絵となるはずだ。その絵が、駄作なのか、傑作なのかは、描き上げた本人にはついぞ判断ができぬものなのかもしれない。
この小片は、僕が死んだあとに神様に提出する卒業論文の一項目とするつもりで書いたものだ。もしかしたら、その稚拙さに神様は苦笑するかもしれない。僕自身、顔から火が出るような羞恥心を覚えるのかもしれない。
しかし、自分自身の人生の責任として、これが等身大の僕の姿なのだと思うしかない。
2008年12月01日
piece1 二十歳の航海 コンパスなき旅の始まり
piece1 二十歳の航海
コンパスなき旅の始まり
「おまえ、いくつになった」
夕刊を読みながら晩酌をしていた父が、無関心そうに切り出した。
「二十歳だよ」
放蕩の果てに、現役を含めて三度の大学受験に失敗した僕は、ずるずると三浪生活に突入しようとしていた。父は不機嫌そうには見えなかった。しかし、やはり無関心そうに言葉を継いだ。
「もう十分な大人だな。お前の人生はお前が決めろ。親は口出ししない。好きに生きたらいいさ。ただし、二十歳を過ぎて親のすねをかじるようなみっともない真似はやめろよ」
最初、僕は父が何を言っているのか理解できなかった。しかし、言われた言葉を丁寧に反芻していくと、それは「浪人したければ自分の金でしろ。今後は、生活費一切は自分で稼げ」ということであり、要は、僕は二十歳にして、いきなり父から「経済的勘当」を言い渡されたわけだ。その背景には、家庭の経済事情で進学を希望しながら、高卒で保険会社に就職しなくてはならなかった姉の立場を配慮した部分もあるのだろう。
ふだん、子供の教育にはまったく無関心だった父が、母に含まれて、父親としての威厳を発揮すべく、「経済亭的勘当」を通達したことは容易に想像がついた。父からすれば、最初で最後の、一世一代の説教だったに違いない。
「まあ、そういうことだ」。
そういって、父は何もなかったかのようにまた酒を飲んだ。
結局、僕が就職したのは、親方と数人の社員しかいない電話工事の下請け会社だ。電話工事といえば聞こえはいいが、速い話が3K全部そろった肉体系の仕事で、道路のアスファルトに鶴嘴をたて、一メートル数十センチの穴を掘る建柱と雨水と汚泥の溜まったマンホールとマンホール間にケーブルを通すのが作業が主な仕事だった。
最初の一日で、僕の体は油の切れた機械仕掛けのロボットのようになった。それでも、何とか働き出すと節々に油がまわるが如く体が動き出す。一週間もすれば筋肉痛も落ち着いてきて、いっぱしの土方の風格もついてきた。それと同時に、彼らの世界に埋没していったのである。それは大人といえば大人の世界だったが、ある意味で社会の底辺に近い生き方も垣間見てしまったような気がする。ここで僕は、酒と煙草と高レートの賭け麻雀を覚えた。勉強をする体力と気力はとても残っていなかった。
年が暮れるころになると、受験生はいよいよ目が血走ってくる。さすがにのんびり屋の僕も、自分が実は受験生であったことを思い出し、親方に懇願する。
「一応、もう一度、大学を受けるから、三ヶ月だけ休ませてくれ。落ちたら、戻ってくるし、受かっても、親父は金出さないといっているから、ここに世話になるしかないんだ」
すでに錆び付いた三年間の知識の蓄積を洗い直すのが精一杯で、最初に受けた立命館では、世界史に近代史が出題され、その瞬間、結果が決まってしまう始末。滑り止めのつもりで「受かっても行くかどうか」と豪語していた某大学は、数学で答案用紙の解答欄のたて並びと横並びを勘違いし、ほぼ零点。この時は合格発表で、ほんとうに地面がなくなったような衝撃を味わう。ようやく、最後に受けた慶應の補欠のいちばんケツッピタに引っかかった僕は、苦節三年、晴れて二十一歳の大学生になったのだ。
「お前は馬鹿なんだか、利口なんだか、わからないな」
それが僕を祝福した父のせりふである。
晴れて大学生になったものの、約束は約束である。本当に父は僕の学費を出してくれなかった。僕は、学生時代の春休みと夏休みに遊んだ記憶がない。毎日、マンホールにもぐった。あるいは、アスファルトに鶴嘴をたてた。二ヶ月の休みが終わった時には、生活費と遊び金を差っ引いた40万近い大金が手元にそろった。当時の僕は、上温湯隆の『サハラに賭けた青春』や『サハラに死す』にあこがれていて、当然、夢は海外放浪志向で、何度か国外脱出の計画を練ったものだが、学校が始まると、その金は、それぞれ半期分の授業料として、僕の懐から消えていくのだった。
さらに、授業のない月曜・土曜・日曜の週三日と祭日は、生活費を稼ぐための仕事だ。大学にいくために仕事をしているのか、仕事をして金が溜まったから大学にいっているのか、なんだかよくわからない四年間だった。おまけに、母からは自宅から大学に通う以上、口前を出すものだと言われ、月々三万円の食事代を家に入れていたのである。
この苦学した四年間が、僕の人生の最大の勉強だったといえば、カッコイイ話だが、それほど、簡単ではない。たくましく生きたことは事実だが、汚れた部分はたくさんある。
まず、同世代の人間が、まったくのガキに見えた。これは僕の人格形成を考えるうえで必ずしもプラスにはなっていない。人を馬鹿にすることで自分を優位に置く人間は最低だ。自分が苦学することになったのは自業自得であって、決してほめられた話ではない。それでも、僕の中には、「お前らとは違うよ」という妙なプライドが形成されていく。そう思うときの自分がきっと気分がよいのだろう。だが、ある日、その自分の心を鏡に映したときに、それはたまらなく醜く、僕は自己嫌悪に襲われるようになった。これを消すのに、十年ぐらいかかったような気がする。
それから、人生の底を知ってしまったせいか、失敗への恐怖心がなくなった。これもある意味では、人生の地力のように錯覚しがちだが、見方を変えれば、極楽トンボな性格にさらに輪をかけたところがあり、「フーテンの寅さん」のような人生観が出来上がってしまった。努力するということが人生を切り開くカギになるのだという思想を獲得するのに、それから十年以上かかったような気がする。もっとも寅さん的極楽トンボは未だもって治っていないような気がするが。
結局、人間は環境の影響を受けながらも、環境には絶対、支配されるものではない。環境に支配されることこそ、自立的観点からいえば人生の敗北なのだということを、確信を持っていえるようになるのに、それ以降の人生のほとんどを費やしてきたような気さえするのだ。
コンパスなき旅の始まり
「おまえ、いくつになった」
夕刊を読みながら晩酌をしていた父が、無関心そうに切り出した。
「二十歳だよ」
放蕩の果てに、現役を含めて三度の大学受験に失敗した僕は、ずるずると三浪生活に突入しようとしていた。父は不機嫌そうには見えなかった。しかし、やはり無関心そうに言葉を継いだ。
「もう十分な大人だな。お前の人生はお前が決めろ。親は口出ししない。好きに生きたらいいさ。ただし、二十歳を過ぎて親のすねをかじるようなみっともない真似はやめろよ」
最初、僕は父が何を言っているのか理解できなかった。しかし、言われた言葉を丁寧に反芻していくと、それは「浪人したければ自分の金でしろ。今後は、生活費一切は自分で稼げ」ということであり、要は、僕は二十歳にして、いきなり父から「経済的勘当」を言い渡されたわけだ。その背景には、家庭の経済事情で進学を希望しながら、高卒で保険会社に就職しなくてはならなかった姉の立場を配慮した部分もあるのだろう。
ふだん、子供の教育にはまったく無関心だった父が、母に含まれて、父親としての威厳を発揮すべく、「経済亭的勘当」を通達したことは容易に想像がついた。父からすれば、最初で最後の、一世一代の説教だったに違いない。
「まあ、そういうことだ」。
そういって、父は何もなかったかのようにまた酒を飲んだ。
結局、僕が就職したのは、親方と数人の社員しかいない電話工事の下請け会社だ。電話工事といえば聞こえはいいが、速い話が3K全部そろった肉体系の仕事で、道路のアスファルトに鶴嘴をたて、一メートル数十センチの穴を掘る建柱と雨水と汚泥の溜まったマンホールとマンホール間にケーブルを通すのが作業が主な仕事だった。
最初の一日で、僕の体は油の切れた機械仕掛けのロボットのようになった。それでも、何とか働き出すと節々に油がまわるが如く体が動き出す。一週間もすれば筋肉痛も落ち着いてきて、いっぱしの土方の風格もついてきた。それと同時に、彼らの世界に埋没していったのである。それは大人といえば大人の世界だったが、ある意味で社会の底辺に近い生き方も垣間見てしまったような気がする。ここで僕は、酒と煙草と高レートの賭け麻雀を覚えた。勉強をする体力と気力はとても残っていなかった。
年が暮れるころになると、受験生はいよいよ目が血走ってくる。さすがにのんびり屋の僕も、自分が実は受験生であったことを思い出し、親方に懇願する。
「一応、もう一度、大学を受けるから、三ヶ月だけ休ませてくれ。落ちたら、戻ってくるし、受かっても、親父は金出さないといっているから、ここに世話になるしかないんだ」
すでに錆び付いた三年間の知識の蓄積を洗い直すのが精一杯で、最初に受けた立命館では、世界史に近代史が出題され、その瞬間、結果が決まってしまう始末。滑り止めのつもりで「受かっても行くかどうか」と豪語していた某大学は、数学で答案用紙の解答欄のたて並びと横並びを勘違いし、ほぼ零点。この時は合格発表で、ほんとうに地面がなくなったような衝撃を味わう。ようやく、最後に受けた慶應の補欠のいちばんケツッピタに引っかかった僕は、苦節三年、晴れて二十一歳の大学生になったのだ。
「お前は馬鹿なんだか、利口なんだか、わからないな」
それが僕を祝福した父のせりふである。
晴れて大学生になったものの、約束は約束である。本当に父は僕の学費を出してくれなかった。僕は、学生時代の春休みと夏休みに遊んだ記憶がない。毎日、マンホールにもぐった。あるいは、アスファルトに鶴嘴をたてた。二ヶ月の休みが終わった時には、生活費と遊び金を差っ引いた40万近い大金が手元にそろった。当時の僕は、上温湯隆の『サハラに賭けた青春』や『サハラに死す』にあこがれていて、当然、夢は海外放浪志向で、何度か国外脱出の計画を練ったものだが、学校が始まると、その金は、それぞれ半期分の授業料として、僕の懐から消えていくのだった。
さらに、授業のない月曜・土曜・日曜の週三日と祭日は、生活費を稼ぐための仕事だ。大学にいくために仕事をしているのか、仕事をして金が溜まったから大学にいっているのか、なんだかよくわからない四年間だった。おまけに、母からは自宅から大学に通う以上、口前を出すものだと言われ、月々三万円の食事代を家に入れていたのである。
この苦学した四年間が、僕の人生の最大の勉強だったといえば、カッコイイ話だが、それほど、簡単ではない。たくましく生きたことは事実だが、汚れた部分はたくさんある。
まず、同世代の人間が、まったくのガキに見えた。これは僕の人格形成を考えるうえで必ずしもプラスにはなっていない。人を馬鹿にすることで自分を優位に置く人間は最低だ。自分が苦学することになったのは自業自得であって、決してほめられた話ではない。それでも、僕の中には、「お前らとは違うよ」という妙なプライドが形成されていく。そう思うときの自分がきっと気分がよいのだろう。だが、ある日、その自分の心を鏡に映したときに、それはたまらなく醜く、僕は自己嫌悪に襲われるようになった。これを消すのに、十年ぐらいかかったような気がする。
それから、人生の底を知ってしまったせいか、失敗への恐怖心がなくなった。これもある意味では、人生の地力のように錯覚しがちだが、見方を変えれば、極楽トンボな性格にさらに輪をかけたところがあり、「フーテンの寅さん」のような人生観が出来上がってしまった。努力するということが人生を切り開くカギになるのだという思想を獲得するのに、それから十年以上かかったような気がする。もっとも寅さん的極楽トンボは未だもって治っていないような気がするが。
結局、人間は環境の影響を受けながらも、環境には絶対、支配されるものではない。環境に支配されることこそ、自立的観点からいえば人生の敗北なのだということを、確信を持っていえるようになるのに、それ以降の人生のほとんどを費やしてきたような気さえするのだ。
2008年11月15日
piece2 父の思い出 老船の長き航海の終り
piece2 父の思い出
老船の長き航海の終り
物心ついた時、我が家は両親の夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。何度か職を転々とし、最後は板金溶接工に納まっていた父は、毎晩酒を絶やすことがなかった。夫の酒で泣かされる妻の話はどこでも聞くが、我が家もご他聞にもれずそういう家庭だったのだ。
僕が大学に通っていた四年間は、経済的には自立していたこともあって、父とは時々、酒を飲んだ。当時、通勤通学に利用していた駅は単線で、上りと下りが同時に到着する駅だった。下り列車を降りる僕は、上り列車を降りる父と、しばしば改札口で行き会った。すると父は嬉しそうな顔をして、「おい、一杯やっていくか」と声を掛けるのだ。
「よく言うよ、金を出すのは、俺のほうじゃねえか」
実際に持っている小遣いは僕のほうが多く、払いはいつも僕なのだ。それでも、父があまりにも嬉しそうな顔で誘ってくるので、僕も妙な仏心が芽生え、それも悪くないなということになり、挙句の果ては二人して千鳥足のご帰還となるのだ。母の機嫌の悪い日には、雁首そろえてお小言を言われる羽目になる。
二人で酒を飲むと、よく父は自嘲気味にいった。
「人の嫌がる戦争に、志願していく馬鹿もいるってか。へっ」
この言葉から、僕の父の物語は始まる。
父は小樽に生まれた。曽祖父あたりの時代、明治の初めに、それこそ一攫千金を目指して開拓民として北海道に渡ったのだろう。家業は馬車屋で、家には何頭かの馬がいたという。父の母は、それは僕の祖母に当たるわけだが、父が小学生のとき、家の近所の踏切で鉄道自殺をした。理由は知らされていないが、それは一人の少年にとって、神に近い聖なる存在が、もっとも無残な形で喪われていった事件であることは確かだ。父はその無残な姿さえ、きっと見てしまったことだろう。おまけに当時、鉄道を止めることは大罪で、父は学校でよくいじめられたのだと言う。
あるとき、父はコップ酒を見つめながら、僕にこう言ったのだ。
「俺は人間の感情を殺さなければ生きてこられなかったかもしれないな」
そして戦争が激化していく暗黒の時代に、父は志願兵となった。
当時の世相からすれば、よくあるケースなのかもしれないが、父の個人の人生としてみたときに、この世に対する絶望があったのだろう。あの悲惨な生い立ちから、どうにもならない自分の人生に意味づけをするために、死の大義が必要だったのではないか。
しかし、日本は戦争に負けた。天皇陛下は人間になった。その瞬間、父の大義はもろくも崩壊したのだ。そこから父は一気に左傾化する。
男としてみたら、誰にも知られたくない話だったのではないか。しかし、父親の立場からしたら、息子にだけは明かしておきたかったのかもしれない。父と飲む酒は、ふだん家庭では決して見せぬ心の扉の向こう側を、のぞき見るような気がした。
本当は歴史を勉強したかったという父は、二十歳を過ぎて、遅ればせながら青雲の志を抱いて上京する。一時は大学の聴講生を気取っていた時期もあったという。しかし、東京に何の伝もなく、すでに人生の辛酸を舐めた擦れた人間が、挫折の中で都会の享楽に埋没し、敗北していくのはお決まりのコースだったのかもしれない。
僕は「人間は社会のために生きるべきだ」という思想を父から植え付けられた。だから、左翼的な思想を心のどこかで理解できる気もする。しかし、結局、左翼的考えと言うのは、環境の責任ばかり追及するのだ。自分が不幸なのは、全部、環境のせいであり、搾取されているからだというのだろう。本当だろうか。貧乏でなくなったら、プロレタリアートとしてのアイデンティティが崩壊してしまうものだから、貧乏から抜け出る努力もせずに、貧乏であることを自慢し、自己を正当化しているだけではないか。そういう家庭が地獄的にすさんでいくのも無理からぬ話だ。母はそれを嫌った。共産主義というのは、我が家にとってはまさに家庭問題だったのだ。そして、これが家庭問題の現実となった時に、「お父さんが悪い!」ということになってしまうのだ。
やがて、父は年とともに精神的にすさんでいった。
ある日、朝から晩まで繰り返される父の恨み節に母が参っているという電話を姉から受けて、僕は実家に帰った。なるほど、父の口から出る言葉は恨みと憎しみに満ちていた。
金丸だの佐川だの、当時金権政治として暴かれた政権与党やら、贈賄罪で起訴された大企業への批判が、呪いのように何度も口に出る。家にいる間中だ。当時は、そうした不正が発覚し、不正を追及し糺すというのが世論だったから、それを批判することは何らおかしなことではないのだが、父の場合、昨日、殴られた相手に対して言うような怒気が含まれるのだ。正義を看板にしたって憎しみの心は持てる。しかし、憎しみを憎しみのままに生きた瞬間、正義なんて簡単に消えてしまうのだ。人間の幸福という観点でいうならば、父の心はすでに地獄にいるような状態だったのだ。怨念に満ちた情景が何度も心の中をリフレインし、幸福感のかけらもないのだから。
確かに、これでは母が参ってしまうはずだ。結局、父の思想は破綻し敗北したのだ。なぜ、ここまですさむのか。一人の人間として、愛された経験がないわけではないだろうに、家族にも理解されず、愛された記憶を取り戻せない寂寥感が父を覆っていた。父の心にある満たされない思いを埋める必要があるのだ。しかし、父の人生に幸福の絵を描き直すことは、不可能に近いことのようにも思えた。そして、それが僕の仕事のようにも思えた。
兄も姉も、父に泣かされる母を見て育ったせいか、心のどこかで父の放蕩を許せなかったのではないか。それも無理からぬことだった。僕にとっても父という人間は、決して尊敬できる存在ではなかった。しかし、父の生い立ちを思うたびに、結局、そのようにしか生きられなかった人間の悲しみは痛いほど理解できた。決して肯定はしない。褒めもしない。しかし、運命に翻弄され、それを超克できなかった人間の一生をありのままに理解することで、僕は父を愛した。
僕はすでに三十も半ばになり、所帯も持っていたが、実家の近くにアパートを借り、出勤前と仕事帰りに顔を出すようにした。ほんの十分かそこらの会話だが、僕は子供として父と接した。それは小さな子供がうれしそうに一日の出来事を父親に報告する作業にも似ていた。しかし、僕には子供として愛する以外、父の心の隙間は埋められないのだ。
僕が黙っていたら、父の愚痴が出る。僕は何とか話題を先取りし、学生時代に一緒に酒を酌み交わした思い出や、高校生のころ、初めて父の職場に行ったときに、作業服を着て出てきた父の姿がかっこよかったと思った話などを、とりとめもなく話した。
やがて父に笑顔が戻るようになったある日、いつものように他愛もない話をしたあと、僕は勇気を出して父に言った。
「お父さん、社会の不条理はあるかもしれないが、僕にはお父さんの人生が幸福であることのほうがはるかに大事なんだよ」
父は黙りこくってしまった。そして、新聞に目を落とした。その言葉を反芻するかのように、目は活字を追っていなかった。
父の心が沈静化していくのに何ヶ月かかっただろう。
「お父さん、変わったよ。文句を言わなくなったんだよ」という母の言葉を聞き届けて、やがて僕は栃木に転勤になった。
その後、心不全やら脳梗塞やらを繰り返し、体が思うように動かなくなっていった父が、母にぽつんと言ったそうだ。
「俺はろくでもない人間だ。子供がどんな人間になってもおかしくはなかったのに。でも子供たちはみんなまともに育ってくれたなあ。お母さんのおかげだ。俺は幸せだったのかもしれないな」
父の子供がまともかどうかは、実際のところわからぬものがあるが、放蕩の限りを尽くした父は、二十世紀の最期の年に逝った。
父親としてみたならば、必ずしも尊敬できる人間ではなかった。もしかしたら、いまごろ、地獄の三丁目辺りを、千鳥足で歩いているのかもしれない。そんな父に、せめて息子の奢りで赤提灯の酒を飲み交わす思い出を作ってあげられたことは、ちょっぴり冥土の土産になったのではないか。
思えば、三十年前のあの日、父が止むに止まれず、二十歳になった息子をひとり立ちさせるために「経済的勘当」を言い渡したのは、今の僕と同じ歳だ。五十歳の僕からすれば、遥か偉大な父であった。
老船の長き航海の終り
物心ついた時、我が家は両親の夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。何度か職を転々とし、最後は板金溶接工に納まっていた父は、毎晩酒を絶やすことがなかった。夫の酒で泣かされる妻の話はどこでも聞くが、我が家もご他聞にもれずそういう家庭だったのだ。
僕が大学に通っていた四年間は、経済的には自立していたこともあって、父とは時々、酒を飲んだ。当時、通勤通学に利用していた駅は単線で、上りと下りが同時に到着する駅だった。下り列車を降りる僕は、上り列車を降りる父と、しばしば改札口で行き会った。すると父は嬉しそうな顔をして、「おい、一杯やっていくか」と声を掛けるのだ。
「よく言うよ、金を出すのは、俺のほうじゃねえか」
実際に持っている小遣いは僕のほうが多く、払いはいつも僕なのだ。それでも、父があまりにも嬉しそうな顔で誘ってくるので、僕も妙な仏心が芽生え、それも悪くないなということになり、挙句の果ては二人して千鳥足のご帰還となるのだ。母の機嫌の悪い日には、雁首そろえてお小言を言われる羽目になる。
二人で酒を飲むと、よく父は自嘲気味にいった。
「人の嫌がる戦争に、志願していく馬鹿もいるってか。へっ」
この言葉から、僕の父の物語は始まる。
父は小樽に生まれた。曽祖父あたりの時代、明治の初めに、それこそ一攫千金を目指して開拓民として北海道に渡ったのだろう。家業は馬車屋で、家には何頭かの馬がいたという。父の母は、それは僕の祖母に当たるわけだが、父が小学生のとき、家の近所の踏切で鉄道自殺をした。理由は知らされていないが、それは一人の少年にとって、神に近い聖なる存在が、もっとも無残な形で喪われていった事件であることは確かだ。父はその無残な姿さえ、きっと見てしまったことだろう。おまけに当時、鉄道を止めることは大罪で、父は学校でよくいじめられたのだと言う。
あるとき、父はコップ酒を見つめながら、僕にこう言ったのだ。
「俺は人間の感情を殺さなければ生きてこられなかったかもしれないな」
そして戦争が激化していく暗黒の時代に、父は志願兵となった。
当時の世相からすれば、よくあるケースなのかもしれないが、父の個人の人生としてみたときに、この世に対する絶望があったのだろう。あの悲惨な生い立ちから、どうにもならない自分の人生に意味づけをするために、死の大義が必要だったのではないか。
しかし、日本は戦争に負けた。天皇陛下は人間になった。その瞬間、父の大義はもろくも崩壊したのだ。そこから父は一気に左傾化する。
男としてみたら、誰にも知られたくない話だったのではないか。しかし、父親の立場からしたら、息子にだけは明かしておきたかったのかもしれない。父と飲む酒は、ふだん家庭では決して見せぬ心の扉の向こう側を、のぞき見るような気がした。
本当は歴史を勉強したかったという父は、二十歳を過ぎて、遅ればせながら青雲の志を抱いて上京する。一時は大学の聴講生を気取っていた時期もあったという。しかし、東京に何の伝もなく、すでに人生の辛酸を舐めた擦れた人間が、挫折の中で都会の享楽に埋没し、敗北していくのはお決まりのコースだったのかもしれない。
僕は「人間は社会のために生きるべきだ」という思想を父から植え付けられた。だから、左翼的な思想を心のどこかで理解できる気もする。しかし、結局、左翼的考えと言うのは、環境の責任ばかり追及するのだ。自分が不幸なのは、全部、環境のせいであり、搾取されているからだというのだろう。本当だろうか。貧乏でなくなったら、プロレタリアートとしてのアイデンティティが崩壊してしまうものだから、貧乏から抜け出る努力もせずに、貧乏であることを自慢し、自己を正当化しているだけではないか。そういう家庭が地獄的にすさんでいくのも無理からぬ話だ。母はそれを嫌った。共産主義というのは、我が家にとってはまさに家庭問題だったのだ。そして、これが家庭問題の現実となった時に、「お父さんが悪い!」ということになってしまうのだ。
やがて、父は年とともに精神的にすさんでいった。
ある日、朝から晩まで繰り返される父の恨み節に母が参っているという電話を姉から受けて、僕は実家に帰った。なるほど、父の口から出る言葉は恨みと憎しみに満ちていた。
金丸だの佐川だの、当時金権政治として暴かれた政権与党やら、贈賄罪で起訴された大企業への批判が、呪いのように何度も口に出る。家にいる間中だ。当時は、そうした不正が発覚し、不正を追及し糺すというのが世論だったから、それを批判することは何らおかしなことではないのだが、父の場合、昨日、殴られた相手に対して言うような怒気が含まれるのだ。正義を看板にしたって憎しみの心は持てる。しかし、憎しみを憎しみのままに生きた瞬間、正義なんて簡単に消えてしまうのだ。人間の幸福という観点でいうならば、父の心はすでに地獄にいるような状態だったのだ。怨念に満ちた情景が何度も心の中をリフレインし、幸福感のかけらもないのだから。
確かに、これでは母が参ってしまうはずだ。結局、父の思想は破綻し敗北したのだ。なぜ、ここまですさむのか。一人の人間として、愛された経験がないわけではないだろうに、家族にも理解されず、愛された記憶を取り戻せない寂寥感が父を覆っていた。父の心にある満たされない思いを埋める必要があるのだ。しかし、父の人生に幸福の絵を描き直すことは、不可能に近いことのようにも思えた。そして、それが僕の仕事のようにも思えた。
兄も姉も、父に泣かされる母を見て育ったせいか、心のどこかで父の放蕩を許せなかったのではないか。それも無理からぬことだった。僕にとっても父という人間は、決して尊敬できる存在ではなかった。しかし、父の生い立ちを思うたびに、結局、そのようにしか生きられなかった人間の悲しみは痛いほど理解できた。決して肯定はしない。褒めもしない。しかし、運命に翻弄され、それを超克できなかった人間の一生をありのままに理解することで、僕は父を愛した。
僕はすでに三十も半ばになり、所帯も持っていたが、実家の近くにアパートを借り、出勤前と仕事帰りに顔を出すようにした。ほんの十分かそこらの会話だが、僕は子供として父と接した。それは小さな子供がうれしそうに一日の出来事を父親に報告する作業にも似ていた。しかし、僕には子供として愛する以外、父の心の隙間は埋められないのだ。
僕が黙っていたら、父の愚痴が出る。僕は何とか話題を先取りし、学生時代に一緒に酒を酌み交わした思い出や、高校生のころ、初めて父の職場に行ったときに、作業服を着て出てきた父の姿がかっこよかったと思った話などを、とりとめもなく話した。
やがて父に笑顔が戻るようになったある日、いつものように他愛もない話をしたあと、僕は勇気を出して父に言った。
「お父さん、社会の不条理はあるかもしれないが、僕にはお父さんの人生が幸福であることのほうがはるかに大事なんだよ」
父は黙りこくってしまった。そして、新聞に目を落とした。その言葉を反芻するかのように、目は活字を追っていなかった。
父の心が沈静化していくのに何ヶ月かかっただろう。
「お父さん、変わったよ。文句を言わなくなったんだよ」という母の言葉を聞き届けて、やがて僕は栃木に転勤になった。
その後、心不全やら脳梗塞やらを繰り返し、体が思うように動かなくなっていった父が、母にぽつんと言ったそうだ。
「俺はろくでもない人間だ。子供がどんな人間になってもおかしくはなかったのに。でも子供たちはみんなまともに育ってくれたなあ。お母さんのおかげだ。俺は幸せだったのかもしれないな」
父の子供がまともかどうかは、実際のところわからぬものがあるが、放蕩の限りを尽くした父は、二十世紀の最期の年に逝った。
父親としてみたならば、必ずしも尊敬できる人間ではなかった。もしかしたら、いまごろ、地獄の三丁目辺りを、千鳥足で歩いているのかもしれない。そんな父に、せめて息子の奢りで赤提灯の酒を飲み交わす思い出を作ってあげられたことは、ちょっぴり冥土の土産になったのではないか。
思えば、三十年前のあの日、父が止むに止まれず、二十歳になった息子をひとり立ちさせるために「経済的勘当」を言い渡したのは、今の僕と同じ歳だ。五十歳の僕からすれば、遥か偉大な父であった。
2008年11月01日
piece3 十七歳の彷徨 大人へのパスポート
piece3 十七歳の彷徨
大人へのパスポート
「何も言わず十万円、貸してくれないか」
ぶっきらぼうに口を尖らせて僕は言った。母は目を大きく見開いて僕を見た。そして箪笥の引き出しから黙って給料袋を取り出すと、札を数え、袋の中のほとんどの額を僕に差し出した。
「ありがと」
蚊の鳴くようにつぶやくと、僕は部屋を出た。それが精いっぱいだった。情けなくも十七歳の僕は、それだけで涙が止まらなくなってしまった。その金が、貧しかった我が家にとってどれだけ大切なものか、十分わかっていた。
その翌朝、僕は家出をした。
家出をするのに、親に金を借りるバカもいないものだが、そのときの僕の心情はこれから起きることは決して衝動的なものではなくて、目をつぶってわがままを通させてくれ、という子供じみたメッセージを残したかったのだと思う。母を驚かせたくないという、僕なりの気遣いもあっただろう。少なくとも、もう二度と家には帰らないなどという切羽詰まった覚悟などあるわけもなく、冷静に考えるならば、自分が悩んでいることに対して、家族の理解を要求するような甘ったれたものだった。
思い起こせば何が気に入らなかったのか。この時期の記憶で言うならば、普通に大学に行って、普通に就職して、普通に家庭を持って、普通に死んでいく自分の人生が何となく見えてしまったような気がして、いたたまれなかったのか。さもなくば、九歳も離れていて何かにつけ保護者面をする長兄への反発だったのか。どちらかだ。しかし、今となっては、理由などどちらでもよく、成長期の反抗心から、初めて親兄弟に背を向け、家出をしたという事実だけが、僕にとっては意味あることなのだ。
記憶に残っているのは、朝七時に、国鉄の立川駅を出る各駅停車の松本行きに乗ったこと。その電車が、朝もやの中から現われてきたときに、初めて不安と後悔に苛まれたこと、そして、いくら考えてももうあとに引けなかったということだ。
電車に乗っている分には退屈しなかった。中央本線はどんどん山に入っていくし、渓谷もある。湖もある。何時間乗っていても、それは遠足のような楽しさを味わいながらの長旅だったが、いよいよ松本までたどり着いて、僕は初めて途方に暮れてしまった。十七歳の僕には、一人で自分の心を見つめ続けるという訓練がされておらず、何の目的もなく見知らぬ街を逍遥することはたまらなく退屈なことだった。
松本の街を歩き、松本城に行き、冬休みで誰もいない信州大を見たら、もうそれ以上は何もすることがなくなった。旅の目的地をここに選んだのは、辻邦生や北杜夫といった作家が、旧制松本高校でその青春を謳歌した歴史があり、文学青年にはちょっとした魅力のある街だったからだ。しかたないので、僕は喫茶店で『どくとるマンボウ青春記』を読もうと思ったが、それさえもやりなれないことで、15分もするとコーヒーを飲みほしてしまい、活字を追うことにすら集中できなくなり、僕は初めて孤独ということと無縁で生きてきた人間であることを思い知らされたのだった。
その日、僕は岡谷まで戻り、諏訪湖畔の素泊まりで2000円くらいの公共施設の宿をとり、翌日からの時間のつぶし方を考えた。ともかく、冬の長野など、スキーをするか温泉に入るか以外、さほど魅力のあるところではない。こうなったら木曾にでも行ってみるかと思い立ち、二日目は、塩尻から中央本線で奈良井宿に出てみた。奈良井は山が迫って来る木曾の宿場町である。木曾の山から吹き下ろしそして、山に向かって吹きあげる吹雪に身をさらしながら僕は宿場に入った。
このあたりの商家は街道に面した入口からウナギの寝床のような奥行きのある間取りで家を構えている。
僕はお土産屋をへめぐり、蕎麦屋で朝食と昼食を兼ねた蕎麦をすすり、時間をつぶした。そして、この宿場町の一角に大宝寺という臨済宗の寺を見出した。
案内書を見れば、ここにはマリア地蔵なるものがあるという。当然それは、隠れキリシタンがこの地にもいたことを意味するものだろう。当時、僕が読んでいた遠藤周作の『沈黙』やエッセイなどで、天草や雲仙で隠れキリシタンたちが、どのような拷問を受け殺されていったかは知っていた。このような山奥にも密かにキリシタンを信仰する人がいたということが新鮮な発見となって、僕は恐る恐る寺に足を踏み入れた。
雪はかなり激しくなっていて、山から吹き下ろし、町からまた吹きあがっていくようにさえ思えた。母から買ってもらったダッフルコートのフードをかぶり、奥に進んでいった。たどり着いたマリア地蔵には首がなかった。抱かれた子供も膝を破壊されていた。僅かに胸に十字架だけが残っている。地蔵を作ったということは、間引きされた子供の供養なのか、そうでなければ弾圧で殺された子供の供養なのか。こういう破壊の仕方はまるで、打ち下ろした刃先に込められた憎しみの感情のようなものまで伝わってきて、僕はめまいを感じた。何人も殺されたのだろう。寺にこれだけの地蔵を安置するとするなら、このキリシタン弾圧の一方で、それなりの影響力を持つ人間がキリシタン側の背後にもいるのだろう。取り締まりもし烈を極めただろうし、抵抗した人間は容赦なく殺されたのだろう。
雪はさらに激しく振り下ろしてくる。殺される恐怖、家族を失う悲しみ、殺す大義、殺す狂喜。この地に渦巻く怨念のようなものが襲ってくるようだった。昨日は、一つの話題を15分として頭の中にととどめておけなかったのに、今日は何を考えてもキリシタン弾圧に思考がつながってしまうのだ。雪を見ても、町を歩いても、飯を食っても、頭の中から、思考が離れない。さすがに僕も滅入ってきた。
次の宿場に行く意欲も失せ、僕はそのまま岡谷の宿に戻った。
その夜、僕は夢を見た。地下水牢に閉じ込められる夢だった。父が隠れキリシタンで、誰かに裏切りによって投獄され、家族も捕らえられるという設定が、何の疑いもなく夢の中では成立している。まるで誰かの記憶をそのまま所有しているような感じだった。
水牢はどんどん水浸しになって、少年だった僕は恐怖におびえて泣いている。僕はここで死ぬのだということがわかった。
僕は体が硬直したまま、根汗をびっしょりかき、そして夢から覚めた。まるで霊にとり憑かれたようなリアルな夢だった。しがみついた水牢の苔むした壁の感触が手に残っていた。怖くて目が開けていられず、目をつむるが、眠ると夢の続きが始まりそうで、余計に怖かった。どう見ても、夢のような気がしない。目が覚めていても、まだ僕は水牢から脱出できていないような気がした。
夜が明け、朝日がさしてくると、ようやく現実が戻ってきた。僕はほうほうのていで宿を引き払い、中央本線の上り列車に乗った。家に帰ろうと思った。もうそこからは何も覚えていない。
しょぼくれて家に帰ると、母は黙って僕を中に入れ、僕が何をしていたかは一切聞こうともしなかった。僕も何も言わなかった。僕は母から預かった10万円を返そうと思った。少ないながら、自分の小遣いも持っていたので、結局のところ、母のお金は1万円も使わなかったはずだ。
「何だ、これだけしか使わなかったのか。お前も貧乏性だね」
母は安心した表情を隠すように、呆れ顔をして僕の冒険をねぎらった。まあ、いたしかたない。まだ金の使い方も知らなかった時代のことだ。実は、その金は我が家が年を越すための金だった。堅実な母だと思っていたが、度胸があるというか、大人になろうとする子供の横暴への投資だったのだろう。母の安堵は、大切な金をバカ息子に使われなかったというだけのものでもあるまい。
終わってみれば、僕の17歳の挑戦は、魂の彷徨というにはあまりにも幼く、初めて孤独というものに向き合い、まったく歯が立たず打ちのめされ、一人旅の気分に浸っただけだったということになる。しかし、振り返ってみれば、地上に生を受けて、初めて自分の意思で家族というものを離れ、一人で生きてみた三日間だったのだ。
雛が卵の内側から必死で殻を割り、外の世界に顔を出した瞬間、実はその殻を外から割ってあげていたのが親鳥だったと知った時に感じたであろう安堵感を、僕もまた感じたのだ。僕が飛び出した世界が、まだ親の掌の中にあったことは、ある意味で幸福なことだったのかもしれない。
いまでも、一人で旅をしていると、あの日、汽車に乗っていた17歳の自分が鮮明によみがえってくることがある。そして、いまだにこの母にだけは、僕は頭が上がらないのだ。
大人へのパスポート
「何も言わず十万円、貸してくれないか」
ぶっきらぼうに口を尖らせて僕は言った。母は目を大きく見開いて僕を見た。そして箪笥の引き出しから黙って給料袋を取り出すと、札を数え、袋の中のほとんどの額を僕に差し出した。
「ありがと」
蚊の鳴くようにつぶやくと、僕は部屋を出た。それが精いっぱいだった。情けなくも十七歳の僕は、それだけで涙が止まらなくなってしまった。その金が、貧しかった我が家にとってどれだけ大切なものか、十分わかっていた。
その翌朝、僕は家出をした。
家出をするのに、親に金を借りるバカもいないものだが、そのときの僕の心情はこれから起きることは決して衝動的なものではなくて、目をつぶってわがままを通させてくれ、という子供じみたメッセージを残したかったのだと思う。母を驚かせたくないという、僕なりの気遣いもあっただろう。少なくとも、もう二度と家には帰らないなどという切羽詰まった覚悟などあるわけもなく、冷静に考えるならば、自分が悩んでいることに対して、家族の理解を要求するような甘ったれたものだった。
思い起こせば何が気に入らなかったのか。この時期の記憶で言うならば、普通に大学に行って、普通に就職して、普通に家庭を持って、普通に死んでいく自分の人生が何となく見えてしまったような気がして、いたたまれなかったのか。さもなくば、九歳も離れていて何かにつけ保護者面をする長兄への反発だったのか。どちらかだ。しかし、今となっては、理由などどちらでもよく、成長期の反抗心から、初めて親兄弟に背を向け、家出をしたという事実だけが、僕にとっては意味あることなのだ。
記憶に残っているのは、朝七時に、国鉄の立川駅を出る各駅停車の松本行きに乗ったこと。その電車が、朝もやの中から現われてきたときに、初めて不安と後悔に苛まれたこと、そして、いくら考えてももうあとに引けなかったということだ。
電車に乗っている分には退屈しなかった。中央本線はどんどん山に入っていくし、渓谷もある。湖もある。何時間乗っていても、それは遠足のような楽しさを味わいながらの長旅だったが、いよいよ松本までたどり着いて、僕は初めて途方に暮れてしまった。十七歳の僕には、一人で自分の心を見つめ続けるという訓練がされておらず、何の目的もなく見知らぬ街を逍遥することはたまらなく退屈なことだった。
松本の街を歩き、松本城に行き、冬休みで誰もいない信州大を見たら、もうそれ以上は何もすることがなくなった。旅の目的地をここに選んだのは、辻邦生や北杜夫といった作家が、旧制松本高校でその青春を謳歌した歴史があり、文学青年にはちょっとした魅力のある街だったからだ。しかたないので、僕は喫茶店で『どくとるマンボウ青春記』を読もうと思ったが、それさえもやりなれないことで、15分もするとコーヒーを飲みほしてしまい、活字を追うことにすら集中できなくなり、僕は初めて孤独ということと無縁で生きてきた人間であることを思い知らされたのだった。
その日、僕は岡谷まで戻り、諏訪湖畔の素泊まりで2000円くらいの公共施設の宿をとり、翌日からの時間のつぶし方を考えた。ともかく、冬の長野など、スキーをするか温泉に入るか以外、さほど魅力のあるところではない。こうなったら木曾にでも行ってみるかと思い立ち、二日目は、塩尻から中央本線で奈良井宿に出てみた。奈良井は山が迫って来る木曾の宿場町である。木曾の山から吹き下ろしそして、山に向かって吹きあげる吹雪に身をさらしながら僕は宿場に入った。
このあたりの商家は街道に面した入口からウナギの寝床のような奥行きのある間取りで家を構えている。
僕はお土産屋をへめぐり、蕎麦屋で朝食と昼食を兼ねた蕎麦をすすり、時間をつぶした。そして、この宿場町の一角に大宝寺という臨済宗の寺を見出した。
案内書を見れば、ここにはマリア地蔵なるものがあるという。当然それは、隠れキリシタンがこの地にもいたことを意味するものだろう。当時、僕が読んでいた遠藤周作の『沈黙』やエッセイなどで、天草や雲仙で隠れキリシタンたちが、どのような拷問を受け殺されていったかは知っていた。このような山奥にも密かにキリシタンを信仰する人がいたということが新鮮な発見となって、僕は恐る恐る寺に足を踏み入れた。
雪はかなり激しくなっていて、山から吹き下ろし、町からまた吹きあがっていくようにさえ思えた。母から買ってもらったダッフルコートのフードをかぶり、奥に進んでいった。たどり着いたマリア地蔵には首がなかった。抱かれた子供も膝を破壊されていた。僅かに胸に十字架だけが残っている。地蔵を作ったということは、間引きされた子供の供養なのか、そうでなければ弾圧で殺された子供の供養なのか。こういう破壊の仕方はまるで、打ち下ろした刃先に込められた憎しみの感情のようなものまで伝わってきて、僕はめまいを感じた。何人も殺されたのだろう。寺にこれだけの地蔵を安置するとするなら、このキリシタン弾圧の一方で、それなりの影響力を持つ人間がキリシタン側の背後にもいるのだろう。取り締まりもし烈を極めただろうし、抵抗した人間は容赦なく殺されたのだろう。
雪はさらに激しく振り下ろしてくる。殺される恐怖、家族を失う悲しみ、殺す大義、殺す狂喜。この地に渦巻く怨念のようなものが襲ってくるようだった。昨日は、一つの話題を15分として頭の中にととどめておけなかったのに、今日は何を考えてもキリシタン弾圧に思考がつながってしまうのだ。雪を見ても、町を歩いても、飯を食っても、頭の中から、思考が離れない。さすがに僕も滅入ってきた。
次の宿場に行く意欲も失せ、僕はそのまま岡谷の宿に戻った。
その夜、僕は夢を見た。地下水牢に閉じ込められる夢だった。父が隠れキリシタンで、誰かに裏切りによって投獄され、家族も捕らえられるという設定が、何の疑いもなく夢の中では成立している。まるで誰かの記憶をそのまま所有しているような感じだった。
水牢はどんどん水浸しになって、少年だった僕は恐怖におびえて泣いている。僕はここで死ぬのだということがわかった。
僕は体が硬直したまま、根汗をびっしょりかき、そして夢から覚めた。まるで霊にとり憑かれたようなリアルな夢だった。しがみついた水牢の苔むした壁の感触が手に残っていた。怖くて目が開けていられず、目をつむるが、眠ると夢の続きが始まりそうで、余計に怖かった。どう見ても、夢のような気がしない。目が覚めていても、まだ僕は水牢から脱出できていないような気がした。
夜が明け、朝日がさしてくると、ようやく現実が戻ってきた。僕はほうほうのていで宿を引き払い、中央本線の上り列車に乗った。家に帰ろうと思った。もうそこからは何も覚えていない。
しょぼくれて家に帰ると、母は黙って僕を中に入れ、僕が何をしていたかは一切聞こうともしなかった。僕も何も言わなかった。僕は母から預かった10万円を返そうと思った。少ないながら、自分の小遣いも持っていたので、結局のところ、母のお金は1万円も使わなかったはずだ。
「何だ、これだけしか使わなかったのか。お前も貧乏性だね」
母は安心した表情を隠すように、呆れ顔をして僕の冒険をねぎらった。まあ、いたしかたない。まだ金の使い方も知らなかった時代のことだ。実は、その金は我が家が年を越すための金だった。堅実な母だと思っていたが、度胸があるというか、大人になろうとする子供の横暴への投資だったのだろう。母の安堵は、大切な金をバカ息子に使われなかったというだけのものでもあるまい。
終わってみれば、僕の17歳の挑戦は、魂の彷徨というにはあまりにも幼く、初めて孤独というものに向き合い、まったく歯が立たず打ちのめされ、一人旅の気分に浸っただけだったということになる。しかし、振り返ってみれば、地上に生を受けて、初めて自分の意思で家族というものを離れ、一人で生きてみた三日間だったのだ。
雛が卵の内側から必死で殻を割り、外の世界に顔を出した瞬間、実はその殻を外から割ってあげていたのが親鳥だったと知った時に感じたであろう安堵感を、僕もまた感じたのだ。僕が飛び出した世界が、まだ親の掌の中にあったことは、ある意味で幸福なことだったのかもしれない。
いまでも、一人で旅をしていると、あの日、汽車に乗っていた17歳の自分が鮮明によみがえってくることがある。そして、いまだにこの母にだけは、僕は頭が上がらないのだ。
2008年10月15日
piece4 寛容と許し 僕らは人を本当に愛せのるか
piece4 寛容と許し
僕らは人を本当に愛せのるか
高校に入って間もなく、僕はある視線が引っ掛かるようになった。
それは剃刀のようにギラギラした鋭いものではないが、鈍く陰湿な悪意を含んだ後味の悪い視線だった。その視線の主は、僕より都会の校区から来ているツトムという美術部員のものだ。見ず知らずの人間ばかりで、学生たちの緊張気味だった糸が緩み始める五月の頃だった。
どうにも気になるが、そもそも僕は彼とはひとことも言葉を交わしたことがないのだ。それなのに、因縁をつけてくるという論理がわからない。もちろん僕の少年時代にも不良はいたし、僕だって不良の知り合いはたくさんいたのだ。その中には、いきなり、通りがかりの生徒に「なんだ、てめえ」と噛みつく理不尽な狂犬のようなやつもいたが、それはそういう血気盛んな不良の世界の遊びのような話であって、むしろ、ツトムのような文系の人間の、それこそ人格にケチをつけるようなねちねちとした因縁のほうが遥かに陰湿で相手に与えるダメージが大きいのだ。
美術部には、僕と同じ中学から通学していたサナエという女の子がいた。彼女は中学三年のときには、同じクラスだったので、ときどき同じ電車で一緒に帰ったりしていた。僕はある日、彼女に聞いてみた。
「あいつは何か俺に恨みでもあるのかな。まるで喧嘩を売るみたいに、文句ありげに人を見るんだ」
「嫌いだって言ってたよ、あなたのこと。気に入らないって」
「何でだよ、話もしたことないのに」
「知らないわよ。あなたは日頃の行いが悪いからね。第一印象が悪いんだ。けけ、面白くなってきた」
サナエには僕とツトムの確執を茶化すように笑ったのだ。相変わらず嫌なやつだ。こう言う性格だから、僕とサナエは、中学時代からいつもケンカばかりしていた。
「おまえ、性格悪いぞ。知らない相手を、第一印象だけで嫌いになれる人間のほうが子供だよ。相手を知らないだけなのに」
サナエに、そう吐き捨てたものの、「やっぱり、嫌われてた」と思うとやはりショックで、何の関係もない赤の他人の不本意な悪意の感情の矢は、それは些細なものであったとしても、僕の心に痛く刺さった。不良の喧嘩であるならば、理由など要らない。「気に入らない」というだけで十分だ。しかし、普通の人間の関係において、理由もなく「気に入らない」というのは、正当性のない子供じみた論理であり、僕には到底理解できるものではなかった。そこから僕は悩みの渦に巻き込まれていった。
好きであるという感情はどういうものなのか。嫌いであるという感情はどういうものなのか。生きるとは何か。愛するとは何か。理解するとは何か。人間はどのように生きるべきなのか。来る日も来る日も、僕は考え続けていた。それは数学の方程式を解く作業にも似ていたし、何もないキャンバスに自らの意思で絵をかいていく作業にも似ているような気がした。そして、それが僕が生まれて初めて、幼くも自らを哲学をする瞬間だった。
僕は、どうもノー天気に育っているのか、天真爛漫を絵にかいたような子供で、中学三年になっても、勉強などはまともにしたことがなかった。僕の馬鹿さ加減を証明するエピソードには事欠かない。
僕が中学三年になると、体調を崩した母が仕事を辞め、家に入った。いままでは野放図なままだったが、これからは母の監視下に入る。しかも、三年の二学期の成績は、高校受験の内申書に記載される大事なものだ。ところが、僕はそんなことお構いなしに遊び呆けていた。ある日、僕は母に、呼び止められた。
「お前、毎日、お昼過ぎには帰ってきて遊びに行くけれど、学校はどうしたの」
「うん、心配しなくていいよ。試験なんだ。だから、学校は半日で終わり」
「試験だったら、勉強しなくてはいけないでしょう」
「うん、大丈夫。昨日もう、試験は終わったから」
あまりにも無邪気に僕が答えたものだから、母も二の句が継げず黙ってしまった。母が嘆いたのは言うまでもない。僕の処遇はその夜の家族会議の議題になった。
当時、僕は教師が手をもてあます劣等生グループの一員だった。その一群には、本当に無邪気に遊び呆けている連中や何かあるとすぐ暴力沙汰を起こす連中が混在していた。僕自身はといえば、学校の成績は日頃の素行が影響してクラスでも真ん中くらいだったが、純粋に学力だけがはかられる全国規模のアチーブメントテストでは、校内で三番ぐらいをらくらく取っていた。担任の先生は、自分の管理の枠からはみ出した生徒として露骨にいやな顔をした。
妙なことに、僕は番長には好かれていて、ときどきガラの悪い生徒に因縁をつけられると、番長がそいつにきっちりと落とし前をつけてくれる仕組みになっていた。それをいいことに僕はますます無邪気を絵に描いたような野放図な少年になっていったのである。
あるとき、あまりにも無自覚に生きている僕に、兄が怒鳴ったことがある。
「お前は、そういう生き方をして、自己嫌悪に陥らないのか」
兄と僕は父が違う。兄は母の苦労と母を困らせる新しい父を見ながら、我が家の辛酸を、少年時代に嘗めつくしているのだ。兄は、毎日、家族への愛憎と自己嫌悪のなかで葛藤しながら生きてきたのだろう。その兄からすれば、僕の極楽トンボ的いい加減さは許せないものがあったのではないか。
ところが、僕は、険悪な場の空気も読めず、
「じこけんおって、なあに」
と聞き返したのだ。その無自覚なところが兄の怒りに輪をかけた。
「お前は自己嫌悪もわからないのか」
そして、滔々と兄に「自己嫌悪」の説明をさせた後に吐いた僕の一言に、兄の怒りはさらに燃え上がった。
「自己嫌悪はたぶんないと思う」
そんな僕が食う飯も忘れて考え悩んだのが、なぜ人は人を愛せないのかという問題だ。
僕は自分が40点の人間だと自覚している。でも自分を愛せるのだ。なぜならば40点の僕をすべて知っているからだ。人が評価しない60点の減点分も、僕の中では正当なものであって、それを理解されない苦しみはあるにしても、僕自身がそういう自分を理解している以上、自己嫌悪に陥るべくもない。その部分を人は知らないから、平気で60点を減点しているだけなのだ。人それぞれ、そうではないのか。結局、人を愛せないのは、その人のそういう内なる部分を知らないからなのだ。これが1つめの結論。
では、もし相手のすべてを理解できたならば、人は絶対に他人を愛さずにはいられないだろう。みんな、そうして必死に生きているのだ。表に現れる形というのは一面にすぎないのだ。相手の心の隅々まで知れば、人を理解できる。人の内面を知るということは、許せないものを許すということであり、理解できるということが人を愛するということなのだ。しかも、一人の人間が生きるということは、どれほど多くの人の思いが介在しているのだろう。父、母、兄弟、友人・・・・・。一人の人間を多くの人が愛している。本当はすべての人間は愛される存在であって、それでも、僕がその人を愛せないというのなら、僕自身が理解という点において欠けたる部分があるのではないか。これが2つめの結論。
そこで、まてよ、となる。理解できないから愛せて、理解できないなら愛せないというのなら、その責任管轄は自分になる。いまは、理解できない相手でも、理解ができたら愛せるのなら、理解できないという現実はひとまず置いて、無前提で愛することができるのではないか。自分が知らないという部分に、愛せない理由を帰着させることによって、無条件にすべての人を愛することができるようになるはずだ。寛容な人間の背景には、そういう理解があるのではないか。これが3つめの結論。
僕は子供ながらに全世界の人を愛することができるような可能性を感じて、胸から熱いものがこみ上げてきてしまった。それは、初めて経験するフィロソフィア(愛智・哲学)への感動と言ってもいいのかもしれない。もちろん、このような言葉で理論構築したわけはなく、もっと拙い理屈をこねくり回した結論ではあるが、考えた中身はそういうことだ。
僕は、初めて、考えるということにおいて幸福だった。
しかし、現実はそれほど甘くはなかった。それから間もなくして、サナエが僕に歩み寄って来て言った。
「わかったわよ。理由が。私とあなたが同じ中学で、仲よくしているのをみて嫉妬したんだよ。あいつ。うふふ。私も困っちゃうのよね。二人の男性の火花に挟まれて」
僕は愕然とした。サナエは色気も可愛げも愛想も何もない女性なのだ。別に何の下心も持つわけがないのに、それを誤解して不快な思いをさせたツトムもツトムだが、それを三角関係のもつれのように錯覚し、得心しているサナエもサナエだ。
「おい、サナエ、いい加減にしろよ。俺は、怒ってんだよ!。おまえもツトムも俺は大っきらいだ!」
全人類を愛せるかもしれないと信じた少年の儚い夢は一瞬にして破れ、一人の高校生の、ノー天気で無邪気な、泣き笑い、そしてつかみ合いの喧嘩もする、どこにでもある日常が再び舞い戻ってきたのであった。
その後、僕はツトムのやつがそんなに嫌ではなくなった。ただし、それが愛ゆえなのか、優越感がなせる技なのかはわからない。もし優越感がなせる技だとしたら、僕自身、案外、偽善の仮面を冠った嫌な奴なのかもしれない。
僕らは人を本当に愛せのるか
高校に入って間もなく、僕はある視線が引っ掛かるようになった。
それは剃刀のようにギラギラした鋭いものではないが、鈍く陰湿な悪意を含んだ後味の悪い視線だった。その視線の主は、僕より都会の校区から来ているツトムという美術部員のものだ。見ず知らずの人間ばかりで、学生たちの緊張気味だった糸が緩み始める五月の頃だった。
どうにも気になるが、そもそも僕は彼とはひとことも言葉を交わしたことがないのだ。それなのに、因縁をつけてくるという論理がわからない。もちろん僕の少年時代にも不良はいたし、僕だって不良の知り合いはたくさんいたのだ。その中には、いきなり、通りがかりの生徒に「なんだ、てめえ」と噛みつく理不尽な狂犬のようなやつもいたが、それはそういう血気盛んな不良の世界の遊びのような話であって、むしろ、ツトムのような文系の人間の、それこそ人格にケチをつけるようなねちねちとした因縁のほうが遥かに陰湿で相手に与えるダメージが大きいのだ。
美術部には、僕と同じ中学から通学していたサナエという女の子がいた。彼女は中学三年のときには、同じクラスだったので、ときどき同じ電車で一緒に帰ったりしていた。僕はある日、彼女に聞いてみた。
「あいつは何か俺に恨みでもあるのかな。まるで喧嘩を売るみたいに、文句ありげに人を見るんだ」
「嫌いだって言ってたよ、あなたのこと。気に入らないって」
「何でだよ、話もしたことないのに」
「知らないわよ。あなたは日頃の行いが悪いからね。第一印象が悪いんだ。けけ、面白くなってきた」
サナエには僕とツトムの確執を茶化すように笑ったのだ。相変わらず嫌なやつだ。こう言う性格だから、僕とサナエは、中学時代からいつもケンカばかりしていた。
「おまえ、性格悪いぞ。知らない相手を、第一印象だけで嫌いになれる人間のほうが子供だよ。相手を知らないだけなのに」
サナエに、そう吐き捨てたものの、「やっぱり、嫌われてた」と思うとやはりショックで、何の関係もない赤の他人の不本意な悪意の感情の矢は、それは些細なものであったとしても、僕の心に痛く刺さった。不良の喧嘩であるならば、理由など要らない。「気に入らない」というだけで十分だ。しかし、普通の人間の関係において、理由もなく「気に入らない」というのは、正当性のない子供じみた論理であり、僕には到底理解できるものではなかった。そこから僕は悩みの渦に巻き込まれていった。
好きであるという感情はどういうものなのか。嫌いであるという感情はどういうものなのか。生きるとは何か。愛するとは何か。理解するとは何か。人間はどのように生きるべきなのか。来る日も来る日も、僕は考え続けていた。それは数学の方程式を解く作業にも似ていたし、何もないキャンバスに自らの意思で絵をかいていく作業にも似ているような気がした。そして、それが僕が生まれて初めて、幼くも自らを哲学をする瞬間だった。
僕は、どうもノー天気に育っているのか、天真爛漫を絵にかいたような子供で、中学三年になっても、勉強などはまともにしたことがなかった。僕の馬鹿さ加減を証明するエピソードには事欠かない。
僕が中学三年になると、体調を崩した母が仕事を辞め、家に入った。いままでは野放図なままだったが、これからは母の監視下に入る。しかも、三年の二学期の成績は、高校受験の内申書に記載される大事なものだ。ところが、僕はそんなことお構いなしに遊び呆けていた。ある日、僕は母に、呼び止められた。
「お前、毎日、お昼過ぎには帰ってきて遊びに行くけれど、学校はどうしたの」
「うん、心配しなくていいよ。試験なんだ。だから、学校は半日で終わり」
「試験だったら、勉強しなくてはいけないでしょう」
「うん、大丈夫。昨日もう、試験は終わったから」
あまりにも無邪気に僕が答えたものだから、母も二の句が継げず黙ってしまった。母が嘆いたのは言うまでもない。僕の処遇はその夜の家族会議の議題になった。
当時、僕は教師が手をもてあます劣等生グループの一員だった。その一群には、本当に無邪気に遊び呆けている連中や何かあるとすぐ暴力沙汰を起こす連中が混在していた。僕自身はといえば、学校の成績は日頃の素行が影響してクラスでも真ん中くらいだったが、純粋に学力だけがはかられる全国規模のアチーブメントテストでは、校内で三番ぐらいをらくらく取っていた。担任の先生は、自分の管理の枠からはみ出した生徒として露骨にいやな顔をした。
妙なことに、僕は番長には好かれていて、ときどきガラの悪い生徒に因縁をつけられると、番長がそいつにきっちりと落とし前をつけてくれる仕組みになっていた。それをいいことに僕はますます無邪気を絵に描いたような野放図な少年になっていったのである。
あるとき、あまりにも無自覚に生きている僕に、兄が怒鳴ったことがある。
「お前は、そういう生き方をして、自己嫌悪に陥らないのか」
兄と僕は父が違う。兄は母の苦労と母を困らせる新しい父を見ながら、我が家の辛酸を、少年時代に嘗めつくしているのだ。兄は、毎日、家族への愛憎と自己嫌悪のなかで葛藤しながら生きてきたのだろう。その兄からすれば、僕の極楽トンボ的いい加減さは許せないものがあったのではないか。
ところが、僕は、険悪な場の空気も読めず、
「じこけんおって、なあに」
と聞き返したのだ。その無自覚なところが兄の怒りに輪をかけた。
「お前は自己嫌悪もわからないのか」
そして、滔々と兄に「自己嫌悪」の説明をさせた後に吐いた僕の一言に、兄の怒りはさらに燃え上がった。
「自己嫌悪はたぶんないと思う」
そんな僕が食う飯も忘れて考え悩んだのが、なぜ人は人を愛せないのかという問題だ。
僕は自分が40点の人間だと自覚している。でも自分を愛せるのだ。なぜならば40点の僕をすべて知っているからだ。人が評価しない60点の減点分も、僕の中では正当なものであって、それを理解されない苦しみはあるにしても、僕自身がそういう自分を理解している以上、自己嫌悪に陥るべくもない。その部分を人は知らないから、平気で60点を減点しているだけなのだ。人それぞれ、そうではないのか。結局、人を愛せないのは、その人のそういう内なる部分を知らないからなのだ。これが1つめの結論。
では、もし相手のすべてを理解できたならば、人は絶対に他人を愛さずにはいられないだろう。みんな、そうして必死に生きているのだ。表に現れる形というのは一面にすぎないのだ。相手の心の隅々まで知れば、人を理解できる。人の内面を知るということは、許せないものを許すということであり、理解できるということが人を愛するということなのだ。しかも、一人の人間が生きるということは、どれほど多くの人の思いが介在しているのだろう。父、母、兄弟、友人・・・・・。一人の人間を多くの人が愛している。本当はすべての人間は愛される存在であって、それでも、僕がその人を愛せないというのなら、僕自身が理解という点において欠けたる部分があるのではないか。これが2つめの結論。
そこで、まてよ、となる。理解できないから愛せて、理解できないなら愛せないというのなら、その責任管轄は自分になる。いまは、理解できない相手でも、理解ができたら愛せるのなら、理解できないという現実はひとまず置いて、無前提で愛することができるのではないか。自分が知らないという部分に、愛せない理由を帰着させることによって、無条件にすべての人を愛することができるようになるはずだ。寛容な人間の背景には、そういう理解があるのではないか。これが3つめの結論。
僕は子供ながらに全世界の人を愛することができるような可能性を感じて、胸から熱いものがこみ上げてきてしまった。それは、初めて経験するフィロソフィア(愛智・哲学)への感動と言ってもいいのかもしれない。もちろん、このような言葉で理論構築したわけはなく、もっと拙い理屈をこねくり回した結論ではあるが、考えた中身はそういうことだ。
僕は、初めて、考えるということにおいて幸福だった。
しかし、現実はそれほど甘くはなかった。それから間もなくして、サナエが僕に歩み寄って来て言った。
「わかったわよ。理由が。私とあなたが同じ中学で、仲よくしているのをみて嫉妬したんだよ。あいつ。うふふ。私も困っちゃうのよね。二人の男性の火花に挟まれて」
僕は愕然とした。サナエは色気も可愛げも愛想も何もない女性なのだ。別に何の下心も持つわけがないのに、それを誤解して不快な思いをさせたツトムもツトムだが、それを三角関係のもつれのように錯覚し、得心しているサナエもサナエだ。
「おい、サナエ、いい加減にしろよ。俺は、怒ってんだよ!。おまえもツトムも俺は大っきらいだ!」
全人類を愛せるかもしれないと信じた少年の儚い夢は一瞬にして破れ、一人の高校生の、ノー天気で無邪気な、泣き笑い、そしてつかみ合いの喧嘩もする、どこにでもある日常が再び舞い戻ってきたのであった。
その後、僕はツトムのやつがそんなに嫌ではなくなった。ただし、それが愛ゆえなのか、優越感がなせる技なのかはわからない。もし優越感がなせる技だとしたら、僕自身、案外、偽善の仮面を冠った嫌な奴なのかもしれない。
2008年10月01日
piece5 星とアンモナイト 一億年の流転の果てに
piece5 星とアンモナイト
一億年の流転の果てに
二十五歳の冬、僕は初めて日本を出た。
今から思えば、よくそんなことができたなと思うのだが、それは幸運と怖いもの知らずの度胸の賜物だ。大学を卒業した僕が就職した先は、週刊紙を発行する新聞社だった。発刊日は金曜日。ウィークリーというよりは月四回の発行というのが正しく、五週めは発刊がないのだ。おまけに、新年号というのは特別紙面であり、十二月の初旬にはすでに原稿が完成しているのだ。そして、入社した年の十二月は金曜日が五回まわってくる月だった。つまりは年末年始の約二週間は始まったくの空白期間ができるということになる。
図々しくも、新入社員の僕は、編集長に向かって
「ともかく二週間の休みをください。仕事として、テーマを設定し、新聞一ページ分のルポを書きますから。ただし、交通費も原稿料も請求しませんけど」
とぶちまけたのだ。こんな大胆な主張をかます新入社員もないものだが、編集長も人間ができていて、あっさりとOKを出したのだ(もっともしばらくの間、先輩諸氏からは生意気なヤロウとして目をつけられる羽目になったが)。
当時はバックパッカーなどという洒落た言葉はなく、放浪する若者をとりあえずひっくるめてヒッピー扱いしていた時代だ。そして、多くの若者がそうであったように、僕もまた、旅を通して自分自身を見つめようとしていた。今風にいえば、それは自分探しの旅ということになるのかもしれない。
初めての海外に選んだのはネパールだった。
カトマンズ入りしたその夜に、ナイトバスでバイラワに下り、ルンビニー、テラウラコット(カピラバストゥ)をまわる。花まつりの頃の文化欄に、釈尊の生誕地を訪ねるルポを書くつもりだった。ラッキーなことに現地で知り合ったK・B・チェトリというネパール人の案内で、仏教の専門誌でもほとんど紹介されたことがないデヴダバという村を訪ねることができたのだ。ここは釈尊の母・マーヤー夫人の故郷だ。お陰で、からし菜の畑が黄色い花で染まるこの村の訪問記を、釈尊と母の物語としてルポ風にまとめることができた。
おまけにチェトリさんは、チトワンからポカラ行きのバスが出るからといって、チトワンの近くの自宅まで案内してくれた。チェトリさんの家は十人を超える大家族なのだが、近所からも物珍しげに誰彼となくやってきて、賑やかな宴になった。ぼくはそこで、かなり強いロキシーをたらふくご馳走になった。当時、ロキシーという蒸留酒は、各家庭の自家製で出来が悪いと失明することがあるといわれていた酒だ。客に振舞う以上、それはその家自慢のできのいいものだったに違いない。
ところが、そんなことはお構いなしで、僕が飲むので、「家のロキシーがなくなる。もっとゆっくり飲んでくれ」と言われてしまう始末。チェトリ家には高くついた客になってしまった。僕は恐縮し、お礼に日本から持ってきたホワイトと南沙織のカセットテープをチェトリ家に進呈した。
多少、安上がりではあったが、チェトリ家への一宿一飯の恩義も果たしたし、会社への義理も果たすことができる。翌朝、チェトリ家を辞した僕は、揚揚としてバスの天井の荷台に乗り(ネパールのローカルバスではよくあるのだ)、ヒンドスタン平野を眼下に見下ろしながら、神々の座を目指した。
そして、二十五歳の正月を、僕はヒマラヤを臨む小さな村で迎えた。
その日の午後、僕はポカラの広場で、チベット商人から小さなアンモナイトの化石を買った。それは理科の教科書に出てくるようなくっきりとした流線型で、何とも美しい黒の光彩を放っていた。僕は初めて見るホンモノの化石に、少年のように心を躍らせ、何としてもネパールの旅の記念にそれを手に入れようと心に決めた。
チベット商人の提示した額がいくらだったのか、覚えていないが、そもそも相場を知らないのだから、判断のしようもない。しかし、この国に定価などあるわけもなく、吹っかけてきているのは間違いがないのだ。僕は、自分でも驚くぐらいのしつこい値切り交渉の末に、ここまで値切ればいいだろうと思う値段で、それを手に入れたのだ。
ところが、最後に、チベット商人は化石を新聞紙に無造作に包みながら、ニコッと笑ったのだ。「あ、こいつ、しっかりと儲けやがったな」と思ったが、僕としても、初めて海外に訪れ、受験英語を駆使して、ああでもないこうでもないと駆け引きをしながら、勝ち取った戦利品だ。負け惜しみでもなんでもいい。
「It‘s my price!」。
そういって自慢げに僕は胸を張って見せた。
その日は、尾根づたいにひたすら歩き続け、トレッキングコースの入口にあるダンプスという村で、ふつうの農家にしか見えない粗末なロッジに投宿した。居間と思われる部屋の床にはジャガイモがうずたかく積まれていた。ベッドにも土埃がたまっていた。部屋に入ると、宿の親父が温かいチャー(ミルクティー)を入れてくれた。
無造作に包まれた新聞紙を紐解き、僕は嬉しくて宝物を愛でる少年のように、何度も化石を眺めた。ヒマラヤが海の底だった時代のアンモナイトの息遣いが聞こえてくるようだった。封印された一億年の時が溶け出してくるような錯覚のなか、疲れもあって、僕はまるで魔法にでもかかったようにいつしかまどろんでしまった。
「へい、ジャパニ!」
遅くなって、僕を呼ぶ声で目が覚めた。ドアを開けると、宿の親父が「降りて来い」と指図する。ジャンパーを羽織って降りていくと、外にはすでに何人かの同宿の旅人がいた。この季節のヒマラヤの夜は凍りつくような寒さだ。
そして、親父の指す手の先を見上げた僕は、思わず声をあげた。
何とそこには砂を散りばめたような星屑が広がっているではないか。親父が入れてくれる熱いチャーをすすりながら、僕は天空のパノラマを見つめた。
宇宙に浮かぶ永遠の旅人。無限の時間と空間が僕を包んでいるようだった。
僕の意識は、遥か時空を越えて、星たちの来し方に飛ぶ。この中には、もしかしたら一億年前、遥か宇宙の彼方から、例えば、この太陽系第三惑星の中生代白亜紀の海の底に息づく小さな巻貝に、あるメッセージを届けるために、旅に出た星の光があるかもしれないのだ。
幾万の転生を遡り、一億年前の僕の意識は、どこで何を考えていたんだろう。時を経て、海は山になり、アンモナイトは石に変わり、幾つもの文明が興亡し、そして、この時代に生まれた僕が、ついにそのメッセージを受け取る。もしかしたら旅立った星自体は、いまはもうその生命を終えて消滅しているかもしれないのだ。その永遠の時間と空間を内包した宇宙の不思議を思って、僕は不覚にも涙を流した。
神々の座に瞬く星は、「吾に向ひて光る星」※になった。
※正岡子規は「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」と詠み、
「吾に向ひて光る星」に、母の愛を見て取った。芥川龍之介は『侏儒の言葉』
の中で、この歌を引用し、星の流転する姿に自らの生死の心情を投影し、一
片の随筆を記している
一億年の流転の果てに
二十五歳の冬、僕は初めて日本を出た。
今から思えば、よくそんなことができたなと思うのだが、それは幸運と怖いもの知らずの度胸の賜物だ。大学を卒業した僕が就職した先は、週刊紙を発行する新聞社だった。発刊日は金曜日。ウィークリーというよりは月四回の発行というのが正しく、五週めは発刊がないのだ。おまけに、新年号というのは特別紙面であり、十二月の初旬にはすでに原稿が完成しているのだ。そして、入社した年の十二月は金曜日が五回まわってくる月だった。つまりは年末年始の約二週間は始まったくの空白期間ができるということになる。
図々しくも、新入社員の僕は、編集長に向かって
「ともかく二週間の休みをください。仕事として、テーマを設定し、新聞一ページ分のルポを書きますから。ただし、交通費も原稿料も請求しませんけど」
とぶちまけたのだ。こんな大胆な主張をかます新入社員もないものだが、編集長も人間ができていて、あっさりとOKを出したのだ(もっともしばらくの間、先輩諸氏からは生意気なヤロウとして目をつけられる羽目になったが)。
当時はバックパッカーなどという洒落た言葉はなく、放浪する若者をとりあえずひっくるめてヒッピー扱いしていた時代だ。そして、多くの若者がそうであったように、僕もまた、旅を通して自分自身を見つめようとしていた。今風にいえば、それは自分探しの旅ということになるのかもしれない。
初めての海外に選んだのはネパールだった。
カトマンズ入りしたその夜に、ナイトバスでバイラワに下り、ルンビニー、テラウラコット(カピラバストゥ)をまわる。花まつりの頃の文化欄に、釈尊の生誕地を訪ねるルポを書くつもりだった。ラッキーなことに現地で知り合ったK・B・チェトリというネパール人の案内で、仏教の専門誌でもほとんど紹介されたことがないデヴダバという村を訪ねることができたのだ。ここは釈尊の母・マーヤー夫人の故郷だ。お陰で、からし菜の畑が黄色い花で染まるこの村の訪問記を、釈尊と母の物語としてルポ風にまとめることができた。
おまけにチェトリさんは、チトワンからポカラ行きのバスが出るからといって、チトワンの近くの自宅まで案内してくれた。チェトリさんの家は十人を超える大家族なのだが、近所からも物珍しげに誰彼となくやってきて、賑やかな宴になった。ぼくはそこで、かなり強いロキシーをたらふくご馳走になった。当時、ロキシーという蒸留酒は、各家庭の自家製で出来が悪いと失明することがあるといわれていた酒だ。客に振舞う以上、それはその家自慢のできのいいものだったに違いない。
ところが、そんなことはお構いなしで、僕が飲むので、「家のロキシーがなくなる。もっとゆっくり飲んでくれ」と言われてしまう始末。チェトリ家には高くついた客になってしまった。僕は恐縮し、お礼に日本から持ってきたホワイトと南沙織のカセットテープをチェトリ家に進呈した。
多少、安上がりではあったが、チェトリ家への一宿一飯の恩義も果たしたし、会社への義理も果たすことができる。翌朝、チェトリ家を辞した僕は、揚揚としてバスの天井の荷台に乗り(ネパールのローカルバスではよくあるのだ)、ヒンドスタン平野を眼下に見下ろしながら、神々の座を目指した。
そして、二十五歳の正月を、僕はヒマラヤを臨む小さな村で迎えた。
その日の午後、僕はポカラの広場で、チベット商人から小さなアンモナイトの化石を買った。それは理科の教科書に出てくるようなくっきりとした流線型で、何とも美しい黒の光彩を放っていた。僕は初めて見るホンモノの化石に、少年のように心を躍らせ、何としてもネパールの旅の記念にそれを手に入れようと心に決めた。
チベット商人の提示した額がいくらだったのか、覚えていないが、そもそも相場を知らないのだから、判断のしようもない。しかし、この国に定価などあるわけもなく、吹っかけてきているのは間違いがないのだ。僕は、自分でも驚くぐらいのしつこい値切り交渉の末に、ここまで値切ればいいだろうと思う値段で、それを手に入れたのだ。
ところが、最後に、チベット商人は化石を新聞紙に無造作に包みながら、ニコッと笑ったのだ。「あ、こいつ、しっかりと儲けやがったな」と思ったが、僕としても、初めて海外に訪れ、受験英語を駆使して、ああでもないこうでもないと駆け引きをしながら、勝ち取った戦利品だ。負け惜しみでもなんでもいい。
「It‘s my price!」。
そういって自慢げに僕は胸を張って見せた。
その日は、尾根づたいにひたすら歩き続け、トレッキングコースの入口にあるダンプスという村で、ふつうの農家にしか見えない粗末なロッジに投宿した。居間と思われる部屋の床にはジャガイモがうずたかく積まれていた。ベッドにも土埃がたまっていた。部屋に入ると、宿の親父が温かいチャー(ミルクティー)を入れてくれた。
無造作に包まれた新聞紙を紐解き、僕は嬉しくて宝物を愛でる少年のように、何度も化石を眺めた。ヒマラヤが海の底だった時代のアンモナイトの息遣いが聞こえてくるようだった。封印された一億年の時が溶け出してくるような錯覚のなか、疲れもあって、僕はまるで魔法にでもかかったようにいつしかまどろんでしまった。
「へい、ジャパニ!」
遅くなって、僕を呼ぶ声で目が覚めた。ドアを開けると、宿の親父が「降りて来い」と指図する。ジャンパーを羽織って降りていくと、外にはすでに何人かの同宿の旅人がいた。この季節のヒマラヤの夜は凍りつくような寒さだ。
そして、親父の指す手の先を見上げた僕は、思わず声をあげた。
何とそこには砂を散りばめたような星屑が広がっているではないか。親父が入れてくれる熱いチャーをすすりながら、僕は天空のパノラマを見つめた。
宇宙に浮かぶ永遠の旅人。無限の時間と空間が僕を包んでいるようだった。
僕の意識は、遥か時空を越えて、星たちの来し方に飛ぶ。この中には、もしかしたら一億年前、遥か宇宙の彼方から、例えば、この太陽系第三惑星の中生代白亜紀の海の底に息づく小さな巻貝に、あるメッセージを届けるために、旅に出た星の光があるかもしれないのだ。
幾万の転生を遡り、一億年前の僕の意識は、どこで何を考えていたんだろう。時を経て、海は山になり、アンモナイトは石に変わり、幾つもの文明が興亡し、そして、この時代に生まれた僕が、ついにそのメッセージを受け取る。もしかしたら旅立った星自体は、いまはもうその生命を終えて消滅しているかもしれないのだ。その永遠の時間と空間を内包した宇宙の不思議を思って、僕は不覚にも涙を流した。
神々の座に瞬く星は、「吾に向ひて光る星」※になった。
※正岡子規は「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」と詠み、
「吾に向ひて光る星」に、母の愛を見て取った。芥川龍之介は『侏儒の言葉』
の中で、この歌を引用し、星の流転する姿に自らの生死の心情を投影し、一
片の随筆を記している
2008年09月15日
piece6 「母なるもの」 マーヤーという名の幻
piece6 「母なるもの」
マーヤーという名の幻
ネパールの南部、ブトワールという中継地から12㌔、シータルナガルという何にもない畑の真ん中のバス停で降りた。そこから、日本の田園地帯を思わせるネパールの村を、チェトリさんというネパール人に案内されて、僕は延々と歩き続けた。歩きながら二人の女性のことを考えていた。重たいリュックが肩に食い込む。遠く北の空にヒマラヤの山々がそびえ、あたりの畑にはからし菜が黄色い花をつけていた。
チェトリさんは敬虔な仏教徒だ。仕事を終え、家に帰る途中に、どうしても寄りたいところがあるのだという。「日本人のあなたにも、ぜひ見ていただきたいのだ」と彼は言った。
学生時代、「休学して、一年間、インドに行きたいんだ」と言うと、僕の母は泣いて止めた。兄が男としての僕の心情を理解してくれ、「一年分の授業料を俺が代わりに払うから、行かせてやってくれ」と頼んだのだが、それでも母は断じて首を縦には振らなかった。
「この子をインドなんかに一年も行かせたら、生粋のヒッピーになってきっと帰ってこない。どこかで野垂れ死にするに決まってる」。
真面目な顔をして母はそう言った。そんな母を心底、鬱陶しいと思った。しかし、母の慧眼は恐るべしだった。隠者文学を専攻していた僕は、当時、かなり厭世的な人間になっており、「もしインドの大地で客死するなら、それでもいい。骨はガンジス河に流せばすむ話だ」などと本気で思っていたのだ。
そのくせに、就職してから、再び海外渡航の話をまぜっかえすと、母は何事もなかったように「どうせ、十日かそこらだろう。行けばいい」と言う。子どもの側からすると、その変幻自在な言いようは、どうにも手に負えないところがある。少なくとも僕は、母の「承認」をいただいて、この旅に出たのだ。
その母のことを、ずっと考えていた。
戦前、戦中、戦後、どの時代をみても貧乏くじしか引いていない。母の苦労話は子供の時からさんざん聞かされた。小学校の時に父が病死したため、学校をやめて働きに出たこと。小学校を出ていれば事務の仕事ができたのに、中退だったため、港湾労働者の仕事しかなかったこと。体が弱く、とても長生きはできないと周囲から言われ続けていたこと。青春は戦争のさなかであったこと。前夫との結婚に失敗し、兄を連れて実家に戻ったこと。第二の人生を拓くために、兄を実家に残し、上京したこと。再婚し、兄を呼び寄せ、新しい暮らしを始めたものの、酒好きの夫でさんざん苦労したこと。そして、この夫との間に、姉と僕が生まれたこと。
「いいことなんか何もなかった」
辛くなると、母はいつも愚痴をこぼした。僕の中の「母なるもの」はいつも悲しみを背負っている。僕の人生の中では、それが重荷にさえなっていた。この重荷を下ろすことができたらどんなに幸福だろうとさえ思った。僕がネパールへの旅に出たとき、母はまもなく還暦を迎えようとしていた。
僕とチェトリさんが目指しているデウダバは、古代コーリア国の都。ここは、歴史のかなたに消えていったある女性の生まれ故郷なのだ。
2500年前、カピラバストゥの王城に、王妃懐妊の知らせが走った。長年、世継ぎに恵まれず、憂いの日々が続いていた王城に安堵と歓喜の声が響いたことだろう。王妃の名はマーヤー。お釈迦さまのお母さんその人である。
お産は妻の実家でするのが習わしである。臨月が近づいたマーヤーは、カピラバストゥから故郷のコーリア国デウダバへ従者とともに向かう。その道程を、どんな思いで向かったのだろう。生まれてくる子供はただの子ではない。長年、待ち望んだ子であり、もし男児であれば、釈迦族の王となる運命を背負った子である。母になる喜びと誇らしさに満ちた夫人の胸に、懐かしい故郷の風景と優しく迎えてくれる両親の笑顔が去来したにちがいない。だが、喜びは一転して悲劇に変わる。マーヤーは里帰りの途中、ルンビニーで太子を産み落とし、その身が故郷に辿り着くことはなかった。お産自体が早産だったのだろう。太子を産んだ七日後に、マーヤーはこの世を去った。
乾期の灼熱の太陽に喘ぎ、弱っていく肉体。それ以上に、生まれたばかりの我が子を遺して、逝かなければならなかった母の悲しみの前に、僕は立ち止まる。
王妃の死を悼む声は当然、民衆からもあがったであろう。しかし、太子の誕生と王妃の逝去を秤にかければ、それは王位継承者が生まれることのほうが、国家としては重要案件だ。やがて、王はマーヤーの妹を太子の養母に迎え、太子はすくすくと成長していった。時が過ぎてしまえば、マーヤーの死も、過去の出来事となり、人々の記憶の中からも消えていく。事実、仏伝は、マーヤーの多くを残していない。実際にはまだ、10代のあどけない少女のような年齢だったはずなのだ。
僕は、マーヤーの悲劇的な人生の中に「母なるもの」を感じていた。同時に、僕の母の人生をほんとうに不幸と言い切っていいのだろうかと思った。確かに、苦労は山ほどあったのだろう。それは事実だ。でも、その苦労を笑って話せる日がいつか来るならば、きっと心に描いた不幸感覚の数々はなくなっていくのではないか。死ぬことによって、幸福を放棄せざるを得なかった母と、生きることによって苦しみの人生を背負わざるを得なかった母。どちらが不幸か幸福を比較することはナンセンスだが、少なくとも、生きることがどんなに辛いことであれ、自らの腹を痛めた子の行く末を見守れることは、女にとって、きっと幸せであるはずだ。この旅から帰ったら、マーヤーのことを母に話そうと思った。我が子の育つ姿を見ることもなく死んでいったマーヤーのことを。母ならきっと理解してくれるはずだ。母の人生が必ずしも不幸ではなかったことを。
マーヤー夫人の生家跡は、そこがコーリア国の王家であったことを象徴するかのように、小さな丘の上にあった。隣は学校になっていて、子供たちが青空の下で授業を受けていた。僕たちが訪問すると、英語の教師が、熱いチャー(紅茶)で歓迎してくれた。甘くてジンジャーの効いたワンランク上のスペシャルミルクティーだった。授業を抜け出してきた子供たちが、生家跡を見ている私たちをうれしそうに見ていた。村人たちはこの地を誇りにして守ってきたのだ。
お堂の前でお祈りをするチェトリさんの隣で、僕も静かに頭を垂れた。
「マーヤー」という言葉には「神々の不思議な力」「幻」という意味がある。実際に、幻という意味合いで夫人につけられた名前であるかどうかは定かではない。だが、そのはかない人生を、人々が「幻」という言葉に象徴させながら享受してきたであろうことは想像に難くない。
生家跡を辞し、来た道を戻る。農家の庭先で、病んで骨と皮ばかりになった村娘が、母親に抱えられて小用を足していた。道端では、半裸の子供たちが、物珍しそうに私たちを見つめた。
「ナマステー(こんにちは)」
と言うと、笑いながら走り去っていく。そんなデウダバの風景のひとつひとつが、私にはもの悲しく感じられ、胸が疼いた。
たった七日間だけの母だったマーヤー
永遠の母であるマーヤー
春先、デウダバは一面のからし菜の花で黄色く染まる。その原色の花畑に身を埋めていると、喜びと悲しみの交差した、幻のようにはかない、一人の女の一生が、遠い過去から甦ってくるようであった。
マーヤーという名の幻
ネパールの南部、ブトワールという中継地から12㌔、シータルナガルという何にもない畑の真ん中のバス停で降りた。そこから、日本の田園地帯を思わせるネパールの村を、チェトリさんというネパール人に案内されて、僕は延々と歩き続けた。歩きながら二人の女性のことを考えていた。重たいリュックが肩に食い込む。遠く北の空にヒマラヤの山々がそびえ、あたりの畑にはからし菜が黄色い花をつけていた。
チェトリさんは敬虔な仏教徒だ。仕事を終え、家に帰る途中に、どうしても寄りたいところがあるのだという。「日本人のあなたにも、ぜひ見ていただきたいのだ」と彼は言った。
学生時代、「休学して、一年間、インドに行きたいんだ」と言うと、僕の母は泣いて止めた。兄が男としての僕の心情を理解してくれ、「一年分の授業料を俺が代わりに払うから、行かせてやってくれ」と頼んだのだが、それでも母は断じて首を縦には振らなかった。
「この子をインドなんかに一年も行かせたら、生粋のヒッピーになってきっと帰ってこない。どこかで野垂れ死にするに決まってる」。
真面目な顔をして母はそう言った。そんな母を心底、鬱陶しいと思った。しかし、母の慧眼は恐るべしだった。隠者文学を専攻していた僕は、当時、かなり厭世的な人間になっており、「もしインドの大地で客死するなら、それでもいい。骨はガンジス河に流せばすむ話だ」などと本気で思っていたのだ。
そのくせに、就職してから、再び海外渡航の話をまぜっかえすと、母は何事もなかったように「どうせ、十日かそこらだろう。行けばいい」と言う。子どもの側からすると、その変幻自在な言いようは、どうにも手に負えないところがある。少なくとも僕は、母の「承認」をいただいて、この旅に出たのだ。
その母のことを、ずっと考えていた。
戦前、戦中、戦後、どの時代をみても貧乏くじしか引いていない。母の苦労話は子供の時からさんざん聞かされた。小学校の時に父が病死したため、学校をやめて働きに出たこと。小学校を出ていれば事務の仕事ができたのに、中退だったため、港湾労働者の仕事しかなかったこと。体が弱く、とても長生きはできないと周囲から言われ続けていたこと。青春は戦争のさなかであったこと。前夫との結婚に失敗し、兄を連れて実家に戻ったこと。第二の人生を拓くために、兄を実家に残し、上京したこと。再婚し、兄を呼び寄せ、新しい暮らしを始めたものの、酒好きの夫でさんざん苦労したこと。そして、この夫との間に、姉と僕が生まれたこと。
「いいことなんか何もなかった」
辛くなると、母はいつも愚痴をこぼした。僕の中の「母なるもの」はいつも悲しみを背負っている。僕の人生の中では、それが重荷にさえなっていた。この重荷を下ろすことができたらどんなに幸福だろうとさえ思った。僕がネパールへの旅に出たとき、母はまもなく還暦を迎えようとしていた。
僕とチェトリさんが目指しているデウダバは、古代コーリア国の都。ここは、歴史のかなたに消えていったある女性の生まれ故郷なのだ。
2500年前、カピラバストゥの王城に、王妃懐妊の知らせが走った。長年、世継ぎに恵まれず、憂いの日々が続いていた王城に安堵と歓喜の声が響いたことだろう。王妃の名はマーヤー。お釈迦さまのお母さんその人である。
お産は妻の実家でするのが習わしである。臨月が近づいたマーヤーは、カピラバストゥから故郷のコーリア国デウダバへ従者とともに向かう。その道程を、どんな思いで向かったのだろう。生まれてくる子供はただの子ではない。長年、待ち望んだ子であり、もし男児であれば、釈迦族の王となる運命を背負った子である。母になる喜びと誇らしさに満ちた夫人の胸に、懐かしい故郷の風景と優しく迎えてくれる両親の笑顔が去来したにちがいない。だが、喜びは一転して悲劇に変わる。マーヤーは里帰りの途中、ルンビニーで太子を産み落とし、その身が故郷に辿り着くことはなかった。お産自体が早産だったのだろう。太子を産んだ七日後に、マーヤーはこの世を去った。
乾期の灼熱の太陽に喘ぎ、弱っていく肉体。それ以上に、生まれたばかりの我が子を遺して、逝かなければならなかった母の悲しみの前に、僕は立ち止まる。
王妃の死を悼む声は当然、民衆からもあがったであろう。しかし、太子の誕生と王妃の逝去を秤にかければ、それは王位継承者が生まれることのほうが、国家としては重要案件だ。やがて、王はマーヤーの妹を太子の養母に迎え、太子はすくすくと成長していった。時が過ぎてしまえば、マーヤーの死も、過去の出来事となり、人々の記憶の中からも消えていく。事実、仏伝は、マーヤーの多くを残していない。実際にはまだ、10代のあどけない少女のような年齢だったはずなのだ。
僕は、マーヤーの悲劇的な人生の中に「母なるもの」を感じていた。同時に、僕の母の人生をほんとうに不幸と言い切っていいのだろうかと思った。確かに、苦労は山ほどあったのだろう。それは事実だ。でも、その苦労を笑って話せる日がいつか来るならば、きっと心に描いた不幸感覚の数々はなくなっていくのではないか。死ぬことによって、幸福を放棄せざるを得なかった母と、生きることによって苦しみの人生を背負わざるを得なかった母。どちらが不幸か幸福を比較することはナンセンスだが、少なくとも、生きることがどんなに辛いことであれ、自らの腹を痛めた子の行く末を見守れることは、女にとって、きっと幸せであるはずだ。この旅から帰ったら、マーヤーのことを母に話そうと思った。我が子の育つ姿を見ることもなく死んでいったマーヤーのことを。母ならきっと理解してくれるはずだ。母の人生が必ずしも不幸ではなかったことを。
マーヤー夫人の生家跡は、そこがコーリア国の王家であったことを象徴するかのように、小さな丘の上にあった。隣は学校になっていて、子供たちが青空の下で授業を受けていた。僕たちが訪問すると、英語の教師が、熱いチャー(紅茶)で歓迎してくれた。甘くてジンジャーの効いたワンランク上のスペシャルミルクティーだった。授業を抜け出してきた子供たちが、生家跡を見ている私たちをうれしそうに見ていた。村人たちはこの地を誇りにして守ってきたのだ。
お堂の前でお祈りをするチェトリさんの隣で、僕も静かに頭を垂れた。
「マーヤー」という言葉には「神々の不思議な力」「幻」という意味がある。実際に、幻という意味合いで夫人につけられた名前であるかどうかは定かではない。だが、そのはかない人生を、人々が「幻」という言葉に象徴させながら享受してきたであろうことは想像に難くない。
生家跡を辞し、来た道を戻る。農家の庭先で、病んで骨と皮ばかりになった村娘が、母親に抱えられて小用を足していた。道端では、半裸の子供たちが、物珍しそうに私たちを見つめた。
「ナマステー(こんにちは)」
と言うと、笑いながら走り去っていく。そんなデウダバの風景のひとつひとつが、私にはもの悲しく感じられ、胸が疼いた。
たった七日間だけの母だったマーヤー
永遠の母であるマーヤー
春先、デウダバは一面のからし菜の花で黄色く染まる。その原色の花畑に身を埋めていると、喜びと悲しみの交差した、幻のようにはかない、一人の女の一生が、遠い過去から甦ってくるようであった。
2008年09月01日
piece7 生命を突き動かすちから 紫陽花の生死
piece7 生命を突き動かすちから
紫陽花の生死
大都会と言われる東京も、そのビル群を一歩はなれると住宅の密集した一画をただ狭い路地が通る下町風情の街がいくつもある。僕が二十代の一時期に住んだ中野区南台も、そういう街だった。
大学を卒業して、ある新聞社に就職した僕は、親元を脱出し、この街の六畳一間のアパートに二年間暮らした。風呂もなく、トイレも共同。部屋には、小さな流しだけがかろうじてついていた。おまけに歩いていける会社のわきには、神田川が流れていて、典型的な1970年代フォークの世界を醸し出していたのだ。
僕には九歳年上の兄がいる。九歳も離れていると、テレビも兄貴中心、音楽も兄貴中心になる。当然、昭和二十四年生まれの文化までは共有できるのだ。そのせいか、同世代のアイドルといえば山口百恵になるのだが、僕のカラオケのレパートリーは久保浩やら舟木一夫から始まるのだ。おまけに、この兄貴は、美大の油絵科の貧乏画学生だったものだから、僕に浸透してくる文化は、昭和二十四年生まれの世代でも、さらに垢抜けない泥臭いものであった。
おまけに、就職したときはすでに二十五歳。こうした年上文化が理解できるせいで、僕はずいぶん先輩たちに恵まれた。記事一つ書いても、若手を教えるという教育的配慮はなく、言いたいことだけは遠慮なく言われてしまう「かわいがり」がいのある後輩だったようだ。最長老の先輩などは、仕事で遅くなって帰れなくなると、「きょうはインターコンチネンタル・ネギシに宿泊だ」などとのたまって、焼酎一本でホテル代わりに使っていたし、ある先輩などは揚げたてのコロッケだけで、酒盛りをするという「インターコンチネンタル・コロッケ・パーティー」なるものを勝手に企画し、六畳の部屋には他部署からも男女十人以上が乱入・密集し、一大社交界の会場になったりしたものだ。
そうした泥臭い青春に付き物の色恋も、あるにはあったが、恋愛として語るにはあまりにもお粗末な代物だった。入社して一年が過ぎたころ、じゃりんこチエに似ているという理由で、チエちゃんとあだ名されていた女性を、僕は好きになった。食事に行ったり、映画に行ったり、それなりにデートも重ねたりもしたのだが、先ほども言ったように、所詮、僕は文化が古いのだ。恋文に便箋十枚以上もしたためるような男の純情は、当然の如く、恋愛としては、まったく進展することはなく、現代っ子の彼女の側としては、ちょっと迷惑な惚れられかたで、もてぬネクラ男の悲哀を味わうことになる。その先は推測通りであって、勝手に惚れて勝手に自分で幕を引くという自意識過剰の男によくある演歌的パターンで終焉を迎える。
ある時、彼女が職場に、庭に咲いていた紫陽花の花を持ってきた。職場に活けられた紫陽花を見るだけで、僕は心が切ないのだ。僕としては、この切ない片思いにも幕を引くつもりでチエちゃんに言った。
「チエちゃん、この花きれいだね。紫陽花は大好きだ。僕にも分けてくれないか」
翌朝、彼女は嫌な顔もせず、愛らしくリボンを結んだ花束にして、紫陽花を持ってきた。
「ありがとう、この花は君との大切な思い出になるな。大切にするよ」
僕はジョッキに活けて、毎日、紫陽花を見つめた。この花が枯れたら、僕の恋も終止符を打とう。そう自分に決めたのだ。紫陽花は梅雨時の花だけあって、水をよく吸う。その生命力はへたった僕には羨ましくさえあった。不精な僕も、せっせと毎日、水を換えた。
そんなときに急きょ、出張取材の仕事が入った。場所は九州・田川。僕は、カメラマンと機上の人になった。「突発性血小板減少性紫斑病」という難病を克服した女性の闘病記録を取材するためだった。記者になって三年目、自我のツッパリから強引に中堅入りを背伸びする僕は、イッチョマエの記者として、取材を始めたのだった。
「発病はいつですか」
「高校三年の春です」
「発症はどういう状況でわかったんですか」
「生理の血が止まりませんでした」
そのとき、僕は二十六歳独身。彼女は三十四歳独身。そして、初対面。病気はすでに完治していたのだが、婚期を命がけの闘病生活だけで費やしてきた人なのだ。僕は平静を装って、医者のように淡々と質問を重ねていくしかなかった。しかし、心の中は動揺していた。見ず知らずの男性の前で、決して言いたいわけがない、一人の女性のプライバシーを、取材の名のもとにこじ開けたのだ。繊細で傷つきやすいことが誠実であるような生き方をしていた僕としては、未婚の女性に「生理の血が止まりませんでした」と言わせてしまった罪の意識に、取材の間中、苛まれていた。過去に経験したことのない罪悪感だった。しかも、僕はこの彼女の闘病記録を活字にまでしなくてはならないのだ。
重い気持ちで二泊三日の取材を終えた後、僕はカメラマンと酒を飲んだ。いくら飲んでも酔いがまわってこない酒を僕らは飲み続けた。失恋の痛手、記者という職業への嫌悪、そんなこんなのうっ屈した感情がまじったカクテルのようだった。
家に帰ると、泣きたい思いに押しつぶされて、僕はそのまま眠りに就いた。
翌朝、僕は窓にさす朝日で目が覚めた。二日酔いの喉の渇きと気だるさが、心も体も重くした。まるで死んだ空間のように頭は動かず、僕はぼうとして部屋を見ていた。
その眼に、しな垂れて無残にも枯れた紫陽花の花が映った。
(ああ、枯れてしまった。終わったのだ)
昨夜は、紫陽花にはまったく気がつかなかった。僕は帰宅すると、スーツを脱ぎ棄て、そのまま倒れ込むように布団に身を横たえてしまったのだ。
コップの水位は、紫陽花の茎の切り口のはるか下にさがっていた。それが不思議だ。水面と切り口の間の水はどうしたのか。蒸発したのか。それとも紫陽花が吸い取ったのか。実際にはどうなのかはわからない。
その時、僕の眼にはふっと、その紫陽花の死が、壮絶な生の結果のように見えたのだ。紫陽花は、生きて、生きて、生きて、水を失い、もう生きられないというところから、もう一歩、生きて、そして死んでいったのだ。何という生命力。僕は重い頭を枕に沈めたまま、その屍をずっと見ていた。
きっと人間もそのように生きなくてはいけないのだ。僕にも、そんな生き方が出来るだろうか。いやできるかどうかではなく、そのように生きなくては、いのちの意味がないではないか。どんな結果になってもいい。大事なのは生きる姿勢だ。
自分が生きるということは、多くの人の人生に関わり続けるということだ。だとするならば、僕は僕が関わったすべての人の人生に、責任の一端を背負うということなのだ。それが本当の意味の誠実さということではないのか。そういう人生を生きよう。僕は 僕自身の人生を生きるのだ。心の導火線にひそかに火が付いたような気がした。
それから間もなく予定されていた大阪支局に赴任する準備のために、僕は「インターコンチネンタルホテル」を引き払い、一時、実家に帰った。心の中には、恋もいらない、もう自分のために何も求めない、何も与えられなくてもよい、ただ、己の欲するところに向けて生きるのだという覚悟を秘めていた。
懐かしい青春の思い出。僕の中からは、彼女への切ない恋心も、若さゆえの鬱屈した正義感もすべて過去の出来事として通り過ぎて行ってしまった。だが、生きて、生きて、生きて、もう生きられないというところから、もう一歩、生きて、そして死んでいった紫陽花の花だけが、どういうわけか、僕の心に瑞々しい生命をもって生き続けているのである。
紫陽花の生死
大都会と言われる東京も、そのビル群を一歩はなれると住宅の密集した一画をただ狭い路地が通る下町風情の街がいくつもある。僕が二十代の一時期に住んだ中野区南台も、そういう街だった。
大学を卒業して、ある新聞社に就職した僕は、親元を脱出し、この街の六畳一間のアパートに二年間暮らした。風呂もなく、トイレも共同。部屋には、小さな流しだけがかろうじてついていた。おまけに歩いていける会社のわきには、神田川が流れていて、典型的な1970年代フォークの世界を醸し出していたのだ。
僕には九歳年上の兄がいる。九歳も離れていると、テレビも兄貴中心、音楽も兄貴中心になる。当然、昭和二十四年生まれの文化までは共有できるのだ。そのせいか、同世代のアイドルといえば山口百恵になるのだが、僕のカラオケのレパートリーは久保浩やら舟木一夫から始まるのだ。おまけに、この兄貴は、美大の油絵科の貧乏画学生だったものだから、僕に浸透してくる文化は、昭和二十四年生まれの世代でも、さらに垢抜けない泥臭いものであった。
おまけに、就職したときはすでに二十五歳。こうした年上文化が理解できるせいで、僕はずいぶん先輩たちに恵まれた。記事一つ書いても、若手を教えるという教育的配慮はなく、言いたいことだけは遠慮なく言われてしまう「かわいがり」がいのある後輩だったようだ。最長老の先輩などは、仕事で遅くなって帰れなくなると、「きょうはインターコンチネンタル・ネギシに宿泊だ」などとのたまって、焼酎一本でホテル代わりに使っていたし、ある先輩などは揚げたてのコロッケだけで、酒盛りをするという「インターコンチネンタル・コロッケ・パーティー」なるものを勝手に企画し、六畳の部屋には他部署からも男女十人以上が乱入・密集し、一大社交界の会場になったりしたものだ。
そうした泥臭い青春に付き物の色恋も、あるにはあったが、恋愛として語るにはあまりにもお粗末な代物だった。入社して一年が過ぎたころ、じゃりんこチエに似ているという理由で、チエちゃんとあだ名されていた女性を、僕は好きになった。食事に行ったり、映画に行ったり、それなりにデートも重ねたりもしたのだが、先ほども言ったように、所詮、僕は文化が古いのだ。恋文に便箋十枚以上もしたためるような男の純情は、当然の如く、恋愛としては、まったく進展することはなく、現代っ子の彼女の側としては、ちょっと迷惑な惚れられかたで、もてぬネクラ男の悲哀を味わうことになる。その先は推測通りであって、勝手に惚れて勝手に自分で幕を引くという自意識過剰の男によくある演歌的パターンで終焉を迎える。
ある時、彼女が職場に、庭に咲いていた紫陽花の花を持ってきた。職場に活けられた紫陽花を見るだけで、僕は心が切ないのだ。僕としては、この切ない片思いにも幕を引くつもりでチエちゃんに言った。
「チエちゃん、この花きれいだね。紫陽花は大好きだ。僕にも分けてくれないか」
翌朝、彼女は嫌な顔もせず、愛らしくリボンを結んだ花束にして、紫陽花を持ってきた。
「ありがとう、この花は君との大切な思い出になるな。大切にするよ」
僕はジョッキに活けて、毎日、紫陽花を見つめた。この花が枯れたら、僕の恋も終止符を打とう。そう自分に決めたのだ。紫陽花は梅雨時の花だけあって、水をよく吸う。その生命力はへたった僕には羨ましくさえあった。不精な僕も、せっせと毎日、水を換えた。
そんなときに急きょ、出張取材の仕事が入った。場所は九州・田川。僕は、カメラマンと機上の人になった。「突発性血小板減少性紫斑病」という難病を克服した女性の闘病記録を取材するためだった。記者になって三年目、自我のツッパリから強引に中堅入りを背伸びする僕は、イッチョマエの記者として、取材を始めたのだった。
「発病はいつですか」
「高校三年の春です」
「発症はどういう状況でわかったんですか」
「生理の血が止まりませんでした」
そのとき、僕は二十六歳独身。彼女は三十四歳独身。そして、初対面。病気はすでに完治していたのだが、婚期を命がけの闘病生活だけで費やしてきた人なのだ。僕は平静を装って、医者のように淡々と質問を重ねていくしかなかった。しかし、心の中は動揺していた。見ず知らずの男性の前で、決して言いたいわけがない、一人の女性のプライバシーを、取材の名のもとにこじ開けたのだ。繊細で傷つきやすいことが誠実であるような生き方をしていた僕としては、未婚の女性に「生理の血が止まりませんでした」と言わせてしまった罪の意識に、取材の間中、苛まれていた。過去に経験したことのない罪悪感だった。しかも、僕はこの彼女の闘病記録を活字にまでしなくてはならないのだ。
重い気持ちで二泊三日の取材を終えた後、僕はカメラマンと酒を飲んだ。いくら飲んでも酔いがまわってこない酒を僕らは飲み続けた。失恋の痛手、記者という職業への嫌悪、そんなこんなのうっ屈した感情がまじったカクテルのようだった。
家に帰ると、泣きたい思いに押しつぶされて、僕はそのまま眠りに就いた。
翌朝、僕は窓にさす朝日で目が覚めた。二日酔いの喉の渇きと気だるさが、心も体も重くした。まるで死んだ空間のように頭は動かず、僕はぼうとして部屋を見ていた。
その眼に、しな垂れて無残にも枯れた紫陽花の花が映った。
(ああ、枯れてしまった。終わったのだ)
昨夜は、紫陽花にはまったく気がつかなかった。僕は帰宅すると、スーツを脱ぎ棄て、そのまま倒れ込むように布団に身を横たえてしまったのだ。
コップの水位は、紫陽花の茎の切り口のはるか下にさがっていた。それが不思議だ。水面と切り口の間の水はどうしたのか。蒸発したのか。それとも紫陽花が吸い取ったのか。実際にはどうなのかはわからない。
その時、僕の眼にはふっと、その紫陽花の死が、壮絶な生の結果のように見えたのだ。紫陽花は、生きて、生きて、生きて、水を失い、もう生きられないというところから、もう一歩、生きて、そして死んでいったのだ。何という生命力。僕は重い頭を枕に沈めたまま、その屍をずっと見ていた。
きっと人間もそのように生きなくてはいけないのだ。僕にも、そんな生き方が出来るだろうか。いやできるかどうかではなく、そのように生きなくては、いのちの意味がないではないか。どんな結果になってもいい。大事なのは生きる姿勢だ。
自分が生きるということは、多くの人の人生に関わり続けるということだ。だとするならば、僕は僕が関わったすべての人の人生に、責任の一端を背負うということなのだ。それが本当の意味の誠実さということではないのか。そういう人生を生きよう。僕は 僕自身の人生を生きるのだ。心の導火線にひそかに火が付いたような気がした。
それから間もなく予定されていた大阪支局に赴任する準備のために、僕は「インターコンチネンタルホテル」を引き払い、一時、実家に帰った。心の中には、恋もいらない、もう自分のために何も求めない、何も与えられなくてもよい、ただ、己の欲するところに向けて生きるのだという覚悟を秘めていた。
懐かしい青春の思い出。僕の中からは、彼女への切ない恋心も、若さゆえの鬱屈した正義感もすべて過去の出来事として通り過ぎて行ってしまった。だが、生きて、生きて、生きて、もう生きられないというところから、もう一歩、生きて、そして死んでいった紫陽花の花だけが、どういうわけか、僕の心に瑞々しい生命をもって生き続けているのである。
2008年08月15日
piece8 砂漠の海図 いつの日か金斗雲に乗って天竺へ
piece8 砂漠の海図
いつの日か金斗雲に乗って天竺へ
三十歳の夏、僕は中国のトンゴリ砂漠にいた。
鳥取大の遠山正瑛名誉教授(故人)の黄河流域砂漠緑化プロジェクトの取材で、中国科学院の実験農場のある中国奥地サポトウという村を訪れたのだ。
黄河の上流は、グランドキャニオンを思わせる深い峡谷を流れる。豪雨が地肌をえぐると、その土は下流に運ばれ、川床に堆積する。人々の住む下流の川床が上がると行き所を失った川の水は何度でも氾濫を繰り返すのだ。国を治めるものは川を治めなければならないと言われる所以である。このプロジェクトは黄河上流に葛を植え、自然の力で河岸を固めることで土砂の堆積を抑え、黄河を治水するというものだった。
しかし、今から二十年も前の話だ。いまでも報道の自由が取りざたされる国なのに、当時の中国には、新聞記者に自由に取材をさせる発想などまるでない。いかにも共産主義国家らしく、中国科学院の招きによる国賓待遇としてプロジェクトの視察団が形成され、それに同行する形で取材が許されたのだ。おかげで、共産主義国家的国賓待遇の交流形態なるものを朝から晩まで学習することになる。
食卓には、朝から十品の中華料理が並ぶ。昼には、ここに青島ビールが加わり、夜にはさらに紹興酒と白酒が加わり、「乾杯!乾杯!」の繰り返し。旅行としてみたら、こんな豪華な旅もないだろう。なんせ、国賓待遇なのだから。
その一方で、現在の発展を予想することさえできない貧しい共産主義国というものを随所に垣間見た。北京の一流ホテルで、一行が部屋の冷えたビールを一本ずつ飲んでしまうと、もうそのホテルには冷えたビールはなくなる。冷蔵庫すら満足に普及していないのだ。我々は、旅の行程のほとんどは生ぬるい青島ビールを飲むことになる。もっとも、慣れてしまうとこのぬるい青島ビールはとても味わい深く、逆に冷やしてしまうと、味は消えて、喉ごしだけになってしまうのだ。我々は最初、諦め、次に満足し、最後はビールは冷やしてはいけないなどと薀蓄をたれ、見事に洗脳されてしまうのだった。
中国科学院のお役人は、ともかく愛想がいい。接待攻めでいいところだけ見せてシャンシャンと終わらせたいのだろう。しかし、その反面、街の食堂のウェイトレスにはまるで笑顔がなかった。端から見ていると不機嫌にさえ見える。しかも、水を頼めば、コップをガシッとテーブルに置く。料理は、皿をガンガンいわせながら運ぶ。彼女らは、時間に拘束される公務員労働者であって、笑顔だのサービスには何の付加価値もないのだ。さすがに今は、外資系の企業もたくさん入っているし、そんなことはないのだろうが。20年前の話だ。
移動中はともかく、現地に入ると、さすがに僕もお役人の接待には辟易してきた。案内されるところは、写真を一枚とれば、ことがすむところばかりだ。僕が見たいのは、案内されないところなのだ。
僕が、しばしば一行を離れ、勝手に動き回るようになると、そのたびに案内のお役人は困った顔をして僕を探しに来るといういたちごっこが始まる。このプロジェクトには日本側の多額の研究資金が拠出されているので、その研究がどのように報道されるかは、中国科学院という国家機関にとっては、今後につながる重要案件なのだ。案内したところをちゃんと撮ってもらわねば困るというわけだが、取材をする側からすれば、こんなに不自由な仕事もない。
僕は、この国の衣を脱いだほんとうの姿がファインダーに収めたくて、路地裏に入り、市場に紛れ込み、人々の素顔を追った。だが、無邪気な子供の笑顔も寡黙な老人の表情も、それはそれで価値ある被写体ではあるのだが、結局のところ、単なる人民の素顔に過ぎず、先進国はいざ知らず、世界中のどこの国に行っても当たり前のように見られるものなのだ。何とも言えぬファインダーの奥の食い足りなさと、満腹で消化不良の胃袋のアンバランスな感覚を引きずったまま、時間だけが過ぎていった。
そして、この大地が真なる姿を見せる瞬間が、計らずも旅の終わりにやってきた。サポトウを離れる最後の夜、中国科学院の粋なはからいで、駱駝を駆って砂漠に繰り出し、一夜の夜営をしたのだ。
その砂漠で見た星がすごかった。砂を散りばめるどころか、暗幕に機関銃をぶっ放したような荒々しさで、星たちは僕に迫ってきた。僕らは、星明りの下で車座になり、旅を総括する酒盛りをした。やがて僕は輪を離れ、ひとり夜営をするテントの前に寝転がり、天空を仰いだ。砂漠を渡る風が絶え間なくうなりをあげていた。
ここは歴史の彼方に埋もれた交易路シルクロードだ。この砂漠を、中国から絹が運ばれて行った。西方からは、経典がやってきた。葡萄もやってきた。かぼちゃもやってきた。そして、幾つもの文明が交差した。僕はようやく、この大地の本当の姿を垣間見れる地点に立ったような気がした。
共産主義国家というひとつの政治形態は、この大地を覆った、いまという時代の一枚の衣のようなものだ。ひとたびその衣を脱いでしまえば、そこには、悠久の歴史が大河のように昔も今も滔々と流れているのだ。「この国」という言葉自体が、そもそも、この大地の本当の姿を表さない。「中華人民共和国」なる国は、国家としては、「日本」よりも遥かに歴史は浅いのだ。
いにしえの旅人たちは、この星空を空の海図としてこの砂漠を渡っていったのだろう。その空の海図を眺めているうちに、僕はいつしか真っ暗な闇の向こうに広がる一筋の道を心に描いていた。それは唐の時代、玄奘三蔵が仏の教えを求めて目指した天竺への道だ。
行けども行けども果てしない砂漠、行けども行けども行く手を遮る山々。そこはまさに金角銀角が跋扈し、斉天大聖・孫悟空が荒れ狂う七変化の妖怪の世界だったのだろう。(もっとも、その頃の孫悟空は香取慎吾ではなく堺正章だったが)。
いつの日か、この星空の下、シルクロードならぬブッダロードを遡って、駱駝で砂漠を越え、驢馬でヒマラヤを越え、インドに行ってみようと思った。もしかしたら、本当に途中で山賊に襲われて殺されちゃうかもしれない。家内は止めるだろうな。それでも絶対に行こうと思った。そう思うと、夢がふくらみ、興奮してしまって、とうとう朝まで眠れなくなってしまった。
あれから二十年、その冒険の夢を、僕は、いまだに果たせないでいる。
いつの日か金斗雲に乗って天竺へ
三十歳の夏、僕は中国のトンゴリ砂漠にいた。
鳥取大の遠山正瑛名誉教授(故人)の黄河流域砂漠緑化プロジェクトの取材で、中国科学院の実験農場のある中国奥地サポトウという村を訪れたのだ。
黄河の上流は、グランドキャニオンを思わせる深い峡谷を流れる。豪雨が地肌をえぐると、その土は下流に運ばれ、川床に堆積する。人々の住む下流の川床が上がると行き所を失った川の水は何度でも氾濫を繰り返すのだ。国を治めるものは川を治めなければならないと言われる所以である。このプロジェクトは黄河上流に葛を植え、自然の力で河岸を固めることで土砂の堆積を抑え、黄河を治水するというものだった。
しかし、今から二十年も前の話だ。いまでも報道の自由が取りざたされる国なのに、当時の中国には、新聞記者に自由に取材をさせる発想などまるでない。いかにも共産主義国家らしく、中国科学院の招きによる国賓待遇としてプロジェクトの視察団が形成され、それに同行する形で取材が許されたのだ。おかげで、共産主義国家的国賓待遇の交流形態なるものを朝から晩まで学習することになる。
食卓には、朝から十品の中華料理が並ぶ。昼には、ここに青島ビールが加わり、夜にはさらに紹興酒と白酒が加わり、「乾杯!乾杯!」の繰り返し。旅行としてみたら、こんな豪華な旅もないだろう。なんせ、国賓待遇なのだから。
その一方で、現在の発展を予想することさえできない貧しい共産主義国というものを随所に垣間見た。北京の一流ホテルで、一行が部屋の冷えたビールを一本ずつ飲んでしまうと、もうそのホテルには冷えたビールはなくなる。冷蔵庫すら満足に普及していないのだ。我々は、旅の行程のほとんどは生ぬるい青島ビールを飲むことになる。もっとも、慣れてしまうとこのぬるい青島ビールはとても味わい深く、逆に冷やしてしまうと、味は消えて、喉ごしだけになってしまうのだ。我々は最初、諦め、次に満足し、最後はビールは冷やしてはいけないなどと薀蓄をたれ、見事に洗脳されてしまうのだった。
中国科学院のお役人は、ともかく愛想がいい。接待攻めでいいところだけ見せてシャンシャンと終わらせたいのだろう。しかし、その反面、街の食堂のウェイトレスにはまるで笑顔がなかった。端から見ていると不機嫌にさえ見える。しかも、水を頼めば、コップをガシッとテーブルに置く。料理は、皿をガンガンいわせながら運ぶ。彼女らは、時間に拘束される公務員労働者であって、笑顔だのサービスには何の付加価値もないのだ。さすがに今は、外資系の企業もたくさん入っているし、そんなことはないのだろうが。20年前の話だ。
移動中はともかく、現地に入ると、さすがに僕もお役人の接待には辟易してきた。案内されるところは、写真を一枚とれば、ことがすむところばかりだ。僕が見たいのは、案内されないところなのだ。
僕が、しばしば一行を離れ、勝手に動き回るようになると、そのたびに案内のお役人は困った顔をして僕を探しに来るといういたちごっこが始まる。このプロジェクトには日本側の多額の研究資金が拠出されているので、その研究がどのように報道されるかは、中国科学院という国家機関にとっては、今後につながる重要案件なのだ。案内したところをちゃんと撮ってもらわねば困るというわけだが、取材をする側からすれば、こんなに不自由な仕事もない。
僕は、この国の衣を脱いだほんとうの姿がファインダーに収めたくて、路地裏に入り、市場に紛れ込み、人々の素顔を追った。だが、無邪気な子供の笑顔も寡黙な老人の表情も、それはそれで価値ある被写体ではあるのだが、結局のところ、単なる人民の素顔に過ぎず、先進国はいざ知らず、世界中のどこの国に行っても当たり前のように見られるものなのだ。何とも言えぬファインダーの奥の食い足りなさと、満腹で消化不良の胃袋のアンバランスな感覚を引きずったまま、時間だけが過ぎていった。
そして、この大地が真なる姿を見せる瞬間が、計らずも旅の終わりにやってきた。サポトウを離れる最後の夜、中国科学院の粋なはからいで、駱駝を駆って砂漠に繰り出し、一夜の夜営をしたのだ。
その砂漠で見た星がすごかった。砂を散りばめるどころか、暗幕に機関銃をぶっ放したような荒々しさで、星たちは僕に迫ってきた。僕らは、星明りの下で車座になり、旅を総括する酒盛りをした。やがて僕は輪を離れ、ひとり夜営をするテントの前に寝転がり、天空を仰いだ。砂漠を渡る風が絶え間なくうなりをあげていた。
ここは歴史の彼方に埋もれた交易路シルクロードだ。この砂漠を、中国から絹が運ばれて行った。西方からは、経典がやってきた。葡萄もやってきた。かぼちゃもやってきた。そして、幾つもの文明が交差した。僕はようやく、この大地の本当の姿を垣間見れる地点に立ったような気がした。
共産主義国家というひとつの政治形態は、この大地を覆った、いまという時代の一枚の衣のようなものだ。ひとたびその衣を脱いでしまえば、そこには、悠久の歴史が大河のように昔も今も滔々と流れているのだ。「この国」という言葉自体が、そもそも、この大地の本当の姿を表さない。「中華人民共和国」なる国は、国家としては、「日本」よりも遥かに歴史は浅いのだ。
いにしえの旅人たちは、この星空を空の海図としてこの砂漠を渡っていったのだろう。その空の海図を眺めているうちに、僕はいつしか真っ暗な闇の向こうに広がる一筋の道を心に描いていた。それは唐の時代、玄奘三蔵が仏の教えを求めて目指した天竺への道だ。
行けども行けども果てしない砂漠、行けども行けども行く手を遮る山々。そこはまさに金角銀角が跋扈し、斉天大聖・孫悟空が荒れ狂う七変化の妖怪の世界だったのだろう。(もっとも、その頃の孫悟空は香取慎吾ではなく堺正章だったが)。
いつの日か、この星空の下、シルクロードならぬブッダロードを遡って、駱駝で砂漠を越え、驢馬でヒマラヤを越え、インドに行ってみようと思った。もしかしたら、本当に途中で山賊に襲われて殺されちゃうかもしれない。家内は止めるだろうな。それでも絶対に行こうと思った。そう思うと、夢がふくらみ、興奮してしまって、とうとう朝まで眠れなくなってしまった。
あれから二十年、その冒険の夢を、僕は、いまだに果たせないでいる。
2008年08月10日
piece9 不幸半分、幸福半分 姉の涙
piece9 不幸半分、幸福半分 姉の涙
人生の中の一コマでなかなか消えない静止画像がある。詮無い記憶といえば、それまでだが、それはどういうわけか根っこが深く、妙に僕の人生そのものを決定づけているような根の張り方をしていたりもする。それはどういうものかと言えば、まだ就学前のことだ。
昼間、一人の時間を過ごすことの多かった僕は、兄の作ったプラモデルを、ただ眺めていればいいものを玩具にして遊んで壊してしまい、さらには黙っていればいいものを、夕飯の団らん時に、わざわざ罪の痛みと許しを乞う甘えから、それを告白してしまったのだ。ところが誤れば許されるという甘い期待に反して、兄は烈火のごとく怒り、食事中の僕の頭を後ろから叩いた。不意を突かれた僕は口いっぱいに飯を頬張ったまま、声をあげて泣きだしたのだ。
この記憶が甦るたびに、僕は無性に腹立たしくなり、かといって40年以上前の出来事をいまさら蒸し返すわけにもいかず、ただ苦々しく耐えるしかないのだ。
子供の泣き方というのは、観察してみると面白いもので、だいたい僕のような末っ子の泣き方というのは自己主張型が多く、悲しいわけでも痛いわけでもないくせに、サイレンのように自分の不幸をアピールするように泣くのだ。案外、この泣き方が象徴するような性格で僕は人生を生きてきたような気がして、面映ゆくなる。
対照的なのは、僕の姉だ。男兄弟に挟まれた女の子は少なからず抑圧される。だからいつも妙なプレッシャーに耐えているのだ。姉は、僕のように泣くことによって自分の正当性を主張したりはしない。ただ悲しさをこらえると涙が出てしまうのだ。それは見るからにつらそうで同情に耐えない泣き方なのだ。僕は子供ながらに自分の涙が偽善的であることを、姉を鏡にして見せつけられていたのだろうか。ともかく、その泣き顔を思い出すだけでも気の毒なことこのうえない気持ちになるのだ。
幼年時代こそ、借りてきた猫のような存在だった僕も、小学生になると天真爛漫さが開花し、家族の中で発言権と存在感を増してくるようになる。必然、姉の側からすれば、年の離れた横暴な兄と二歳下のやんちゃな弟に、上と下からプレッシャーをかけられる。だんだん貧乏くじを引く運命が顕現してこようというものだ。
当時、兄は、家庭の経済事情から就職に有利というだけの理由で工業高校の機械科に進学した。そして、アルバイトに行った自動車会社に、工員としてそのまま入社することになる。このままいったら、みんな幸福だったという線も考えられる。しかし、一番最初に自分の不幸に目覚めたのは、当の兄そのものだった。流れ作業を続けているうちに、「ベルトコンベアに支配される自分の一生」を悟ってしまい、チャップリン的衝動から仕事を辞めてしまう。
結局、大学を出て、歴史の教師になるといって、新聞奨学生として住み込みで浪人生活に突入。おまけに翌年の大学受験に失敗すると、「ほんとうにやりたいのはこれなのだ」と言って美大受験に転向するのである。
スカを食ったのが、兄から六歳年下の姉だ。姉は姉で、これまた就職に有利だからという理由で商業高校に入るが、やはり卒業するころには、みんなと同じように大学に行きたいと主張するようになる。しかし、兄はまだ美大の油絵科の学生で、二年後には僕が大学受験を迎える。両親は困ったことだろう。結局、「国公立に限って進学を許可す。浪人はなし」というのが、両親が姉に下した御沙汰だった。しかし、これは理不尽だったろう。そもそも進学校ではないところから現役で国公立を受けろというのは、結果はわかっているが、やるだけやらせて納得させるという手法だ。親の大義名分は、女は無理して大学に行かなくてもいいという、さながら封建時代のような屁理屈だった。早い話が、金がなかったのだ。姉は泣いた。人生で最初の決定的な挫折だっただろう。姉は、渋谷にある保険会社の事務に就職した。
遅れてきた受験生の僕も、同級生のほとんどが浪人覚悟という地元の都立高校出身のせいか、現役は最初からありえず、一浪は予備校に通ったものの、二年めは新聞配達をしながら自宅浪人。そしていよいよ、三浪に突入した時、いままで堪えてきた姉の涙が怒りに変わった。
「私は浪人さえ許されなかった。誰も受かるなんて思っていない大学しか受けさせてもらえなかった。なぜあの子だけ好き勝手させるのか」
親としても、一番冷え飯を食わした手前、姉にそこまで言われて、放っておけなくなったのだろう。確かに姉は不憫だったのだ。その結果、放蕩息子は、因果応報というか、姉の怨念というか、怠惰と無自覚の罪を購うかの如く、受験生という特権階級的肩書を失い、酒と汗と荒くれの肉体労働の世界に健康保険証と年金手帳を貰って、生業として入ることになる。
幸い、兄は小学校教諭を経て、絵描きとなり、家庭を持ち、二人の娘の父親になった。姉は堅実な男性と結婚し、息子と三人で暮らしている。僕も何とか大学を出て、鶴嘴を捨て、鉛筆と原稿用紙の世界に入り、現在にいたっているのだ。
親の貧乏のカルマをご丁寧に背負ったのは頭領の甚六だ。あの時、兄がお堅いサラリーマンになっていれば、姉の運命は変わったはずだ。しかし、兄の性格から考えると、もしベルトコンベアから脱出していなければ自殺をしていたかもしれぬ。現在の貧乏は幸福をつかんだ肩代わりだと思え。食えない芸術家を選択したこと自体が、家族の運命のくびきを背負う羽目になったのだと言いたい。
天真爛漫に極楽とんぼな生き方をしてきた僕は、これまた因果応報で、山あり谷あり、ときどき谷あり谷ありの人生を生きている。姉の進学にふたをした因果の報いか、兄の子供たちが進学するたびに、ない袖を振って、資金提供をする羽目になっている。これもまた自己責任か。
そういう意味では、十代で一番スカを食った姉が、一番ささやかな家庭の幸福というやつを享受しているのではないか。東京に少し高価なマンションを購入し、息子はラグビー部で活躍中だ。僕などはそこにかすかな贖罪的安堵を感じてしまう。もっとも、それももはや余所の家庭のこと。もしかしたら台所で、相変わらず子供の時のような泣き顔で涙を流しているのかもしれぬ。
先日、母方の伯父が逝去し、その葬儀に、健康のすぐれぬ母と兄の代わりに、姉と二人で新潟まで行ってきた。道中、そんな本音をお互いに吐露してみた。お互いに書くに書けない修羅の念を心に秘めながら、それでも貧しい家庭の中で、何かを犠牲にしつつ、支えながら生きてきたのだ。限りない愛情、人生の岐路への悔恨、そして時には憎しみの刃さえ相手に突きつけながら、僕たちは生きてきた。
姉だけは泣かせたくない。彼女の涙はどうにも後ろめたくて苦手だ。どうやら僕はマザコンだけでなく、シスコンも入っているのかもしれない。
人生の中の一コマでなかなか消えない静止画像がある。詮無い記憶といえば、それまでだが、それはどういうわけか根っこが深く、妙に僕の人生そのものを決定づけているような根の張り方をしていたりもする。それはどういうものかと言えば、まだ就学前のことだ。
昼間、一人の時間を過ごすことの多かった僕は、兄の作ったプラモデルを、ただ眺めていればいいものを玩具にして遊んで壊してしまい、さらには黙っていればいいものを、夕飯の団らん時に、わざわざ罪の痛みと許しを乞う甘えから、それを告白してしまったのだ。ところが誤れば許されるという甘い期待に反して、兄は烈火のごとく怒り、食事中の僕の頭を後ろから叩いた。不意を突かれた僕は口いっぱいに飯を頬張ったまま、声をあげて泣きだしたのだ。
この記憶が甦るたびに、僕は無性に腹立たしくなり、かといって40年以上前の出来事をいまさら蒸し返すわけにもいかず、ただ苦々しく耐えるしかないのだ。
子供の泣き方というのは、観察してみると面白いもので、だいたい僕のような末っ子の泣き方というのは自己主張型が多く、悲しいわけでも痛いわけでもないくせに、サイレンのように自分の不幸をアピールするように泣くのだ。案外、この泣き方が象徴するような性格で僕は人生を生きてきたような気がして、面映ゆくなる。
対照的なのは、僕の姉だ。男兄弟に挟まれた女の子は少なからず抑圧される。だからいつも妙なプレッシャーに耐えているのだ。姉は、僕のように泣くことによって自分の正当性を主張したりはしない。ただ悲しさをこらえると涙が出てしまうのだ。それは見るからにつらそうで同情に耐えない泣き方なのだ。僕は子供ながらに自分の涙が偽善的であることを、姉を鏡にして見せつけられていたのだろうか。ともかく、その泣き顔を思い出すだけでも気の毒なことこのうえない気持ちになるのだ。
幼年時代こそ、借りてきた猫のような存在だった僕も、小学生になると天真爛漫さが開花し、家族の中で発言権と存在感を増してくるようになる。必然、姉の側からすれば、年の離れた横暴な兄と二歳下のやんちゃな弟に、上と下からプレッシャーをかけられる。だんだん貧乏くじを引く運命が顕現してこようというものだ。
当時、兄は、家庭の経済事情から就職に有利というだけの理由で工業高校の機械科に進学した。そして、アルバイトに行った自動車会社に、工員としてそのまま入社することになる。このままいったら、みんな幸福だったという線も考えられる。しかし、一番最初に自分の不幸に目覚めたのは、当の兄そのものだった。流れ作業を続けているうちに、「ベルトコンベアに支配される自分の一生」を悟ってしまい、チャップリン的衝動から仕事を辞めてしまう。
結局、大学を出て、歴史の教師になるといって、新聞奨学生として住み込みで浪人生活に突入。おまけに翌年の大学受験に失敗すると、「ほんとうにやりたいのはこれなのだ」と言って美大受験に転向するのである。
スカを食ったのが、兄から六歳年下の姉だ。姉は姉で、これまた就職に有利だからという理由で商業高校に入るが、やはり卒業するころには、みんなと同じように大学に行きたいと主張するようになる。しかし、兄はまだ美大の油絵科の学生で、二年後には僕が大学受験を迎える。両親は困ったことだろう。結局、「国公立に限って進学を許可す。浪人はなし」というのが、両親が姉に下した御沙汰だった。しかし、これは理不尽だったろう。そもそも進学校ではないところから現役で国公立を受けろというのは、結果はわかっているが、やるだけやらせて納得させるという手法だ。親の大義名分は、女は無理して大学に行かなくてもいいという、さながら封建時代のような屁理屈だった。早い話が、金がなかったのだ。姉は泣いた。人生で最初の決定的な挫折だっただろう。姉は、渋谷にある保険会社の事務に就職した。
遅れてきた受験生の僕も、同級生のほとんどが浪人覚悟という地元の都立高校出身のせいか、現役は最初からありえず、一浪は予備校に通ったものの、二年めは新聞配達をしながら自宅浪人。そしていよいよ、三浪に突入した時、いままで堪えてきた姉の涙が怒りに変わった。
「私は浪人さえ許されなかった。誰も受かるなんて思っていない大学しか受けさせてもらえなかった。なぜあの子だけ好き勝手させるのか」
親としても、一番冷え飯を食わした手前、姉にそこまで言われて、放っておけなくなったのだろう。確かに姉は不憫だったのだ。その結果、放蕩息子は、因果応報というか、姉の怨念というか、怠惰と無自覚の罪を購うかの如く、受験生という特権階級的肩書を失い、酒と汗と荒くれの肉体労働の世界に健康保険証と年金手帳を貰って、生業として入ることになる。
幸い、兄は小学校教諭を経て、絵描きとなり、家庭を持ち、二人の娘の父親になった。姉は堅実な男性と結婚し、息子と三人で暮らしている。僕も何とか大学を出て、鶴嘴を捨て、鉛筆と原稿用紙の世界に入り、現在にいたっているのだ。
親の貧乏のカルマをご丁寧に背負ったのは頭領の甚六だ。あの時、兄がお堅いサラリーマンになっていれば、姉の運命は変わったはずだ。しかし、兄の性格から考えると、もしベルトコンベアから脱出していなければ自殺をしていたかもしれぬ。現在の貧乏は幸福をつかんだ肩代わりだと思え。食えない芸術家を選択したこと自体が、家族の運命のくびきを背負う羽目になったのだと言いたい。
天真爛漫に極楽とんぼな生き方をしてきた僕は、これまた因果応報で、山あり谷あり、ときどき谷あり谷ありの人生を生きている。姉の進学にふたをした因果の報いか、兄の子供たちが進学するたびに、ない袖を振って、資金提供をする羽目になっている。これもまた自己責任か。
そういう意味では、十代で一番スカを食った姉が、一番ささやかな家庭の幸福というやつを享受しているのではないか。東京に少し高価なマンションを購入し、息子はラグビー部で活躍中だ。僕などはそこにかすかな贖罪的安堵を感じてしまう。もっとも、それももはや余所の家庭のこと。もしかしたら台所で、相変わらず子供の時のような泣き顔で涙を流しているのかもしれぬ。
先日、母方の伯父が逝去し、その葬儀に、健康のすぐれぬ母と兄の代わりに、姉と二人で新潟まで行ってきた。道中、そんな本音をお互いに吐露してみた。お互いに書くに書けない修羅の念を心に秘めながら、それでも貧しい家庭の中で、何かを犠牲にしつつ、支えながら生きてきたのだ。限りない愛情、人生の岐路への悔恨、そして時には憎しみの刃さえ相手に突きつけながら、僕たちは生きてきた。
姉だけは泣かせたくない。彼女の涙はどうにも後ろめたくて苦手だ。どうやら僕はマザコンだけでなく、シスコンも入っているのかもしれない。
2008年08月07日
piece10 あの日のこと、僕の1月17日。神戸にて
piece10 あの日のこと、僕の1月17日
神戸にて
30代の頃、僕はかなりのワーカーホリックで、ひどいときには月のうち半分以上徹夜という時期もあった。仕事が面白くて、やりがいがあり、毎日が楽しくて仕方がない時代だった。その分、家庭をほったらかしだったかというと、そんなこともなく、休みが取れれば、家内と二人、近くの海や山にドライブを楽しんだり、沖縄旅行をしたし、買い物も散歩もいつも一緒に出掛けたものだ。僕たちの恒例のイベントは、お正月とお盆の家内の実家への里帰りだ。ラッシュを避けて二週間くらい早く、家内一人で里帰りをさせ、実家で羽根を伸ばさせた後、僕が迎えに行くような形で尼崎まで出向くのだ。
1994年の暮れ、いつものように一足先に実家に帰っていた家内と尼崎で合流し、新年を家内の実家で迎えた。その家内が新年早々、体の異常を訴えたため、尼崎の病院で診察を受けさせた。その結果、甲状腺機能亢進症と診断され即、入院。僕は家内を病院に置いて一人で帰京した。
それから約二週間後、神戸の大地が揺れた。
地震は地を裂き、建物を薙ぎ払った。
第一報は入院中の家内から入った。
「すっごい揺れやったでぇ~」
「大丈夫か」
「大丈夫や、電話かけてるやん」
家内は東京暮らしにもなれ、地震も何度か経験していて、妙に余裕綽々だ。
しかし、それから間もなくして、ニュースを見ていた僕は、神戸がただならぬ事態になっていることを知る。阪神高速が落ちたというのだ。
おいおい、それはロサンゼルス大地震なみの被害じゃないか。
僕の脳裏に雑誌などで報道されたあのロサンゼルス大地震の壮絶な被害状況が浮かんだ。
当時、僕はある雑誌の創刊にかかわっていて、ともかく現地にいく必要性を痛感した。現場に行けば何かある。現地に行かなければ何もわからない。すぐメンバーを集め、一週間ほどの旅の身支度を整えさせ、車でその日のうちに神戸を目指したのだった。
出発は夕方に差し掛かっていた。夜通し、車を駈けて名阪国道から大阪に入る。コンビニで食料を調達し、大阪市内を抜け、家内が入院していた大物にある県立病院の横を通って2号線から43号線に移る。43号線に入ったのは、道路が広く車線がたくさんあるからだ。流れが滞るとときどき海側に外れてみる。しかし、これが計算外で、海に近いエリアは液状化現象で道路に段差ができている。しかたなく、また43号線に戻るはめになる。そんなことを何度か繰り返し、戻ってきた43号線がかなり狭い。 「あれ」と思いながら車を走らせていた。
そのときだ。
「あっ」と思わず声をあげた。狭くなった道の理由がわかった。
車を止め、外に出る。なんと、壁だと思ったものは、ほかならぬ高速の路面だ。この場所こそ、横倒しになった阪神高速だったのだ。
倒れた斜面の向こうに皓々と月が照っていた。神戸に入って初めて死の恐怖を感じた。災害の規模のあまりの大きさに、当時の風潮でもあった世紀末的恐怖も重なった。これ以降、倒壊家屋、火事、焼け跡、いろいろな地獄絵を見たが、神戸に入って初めて味わったこの瞬間の恐怖が一番強烈だった。
三宮の手前で、いよいよ車は進めず、乗り捨てて僕らは歩き始めた。歩きながら夜が明けた。露わになってみると、その被害はすさまじかった。木造家屋は倒れるというものではない。木端微塵なのだ。一面の倒壊家屋、三宮ではビルが横倒しになり道路を完全に塞いだ。地震から一日しかたっていない朝だった。
やがて、電気が復旧したせいなのだろうか、火災が発生した。火災になっても消防車は来ない。火は瞬く間に広がる。そうこうしているうちに、全く別のところからも火の手が上がった。被災地の緊張感が一段と高まった。
いくつかの地域で救援活動が始まっていた。僕はその一つをベースにして、救援活動をしながら、取材を続けることにした。一番、被害の大きかった長田は一面の焼け野原になっていた。一週間、取材と救援活動を続けた。休憩時間には、一種に物資の配給をしていたボランティアの人とよく話をした。救援ボランティアの中で人一倍、誠実に一生懸命働くSさんと友人になる。50代のおばちゃんだ。話していて、ところどころ言っている意味がわからなくなる。どうも話の前提がかみ合わないのだ。
「どちらの方ですか」
僕が思わず聞くと
「長田です」と答えた。
実は、Sさん自身が被災者だったのだ。地震のときには箪笥が寝ているSさんの左右に倒れてきたという。暗闇の中でしばらく身を潜めていたが、ふと両親が気になって、両親の住む長田の密集地・鷹取商店街に走った。しかし、長田では、もはや火の手が上がっていて、まったく前に進めない状況。呆然と火事を見つめるしかなかった。二日間、避難所や焼け跡で両親を探し、途方に暮れ、そして泣き暮れた。
しかし、臨時の避難所に身を寄せていて、みんなが打ちひしがれている姿を見て、これではだめだと思ったのだという。テレビを見れば、みんな心がすさみ、
「だれが責任とってくれるんや」
「国が責任とれ」
と罵る。その一方で、避難所などでは、みんなが放心状態で希望を失っている姿も見た。
(誰かのせいにしている暇なんかない。みんな絶望して打ちひしがれている。だからこそ、行動すべきなのだ。私は動ける。いま、困っている人を何とかしなければ……)。
Sさんは、そう思って、復興支援のボランティア活動に飛び込んだのだという。それから僕は神戸を離れるまで、ずっとSさんと一緒にボランティア活動を続けた。
Sさんは、僕がこれまでに出会った人の中で、誰よりも気高い人だった。優しさとか愛とか誠実さとか、口にするのは簡単だ。しかし、往々にして、自分が機嫌のいい時、都合のいい時のものではないのか。悲しみに打ちひしがれ、もう誰も愛せないような状態のときに、それでもあなたは人を愛することができるか、それを僕たちは問われているのではないのか。Sさんは、両親を失った悲しみの中で、それでも自分のことをすべて後回しにして、人のために生きたのだ。
炊き出しから、物資の運搬など、ボランティアがする仕事は山ほどあった。昨日がいつで今日がいつなのかもわからない。時間に関する記憶がなくなってしまう。僕は、睡眠もほとんどとらず、寝れるときだけ、救援物資の衣料品の中に潜り込み、夜となく昼となく働き続けた。それはSさんも同じだ。しかし、不思議なことに、僕たちと同じように働いているSさんなのに、僕たちがどんな時間に戻って来ても、ボランティア用の賄いをすぐ用意してくれた。
昼となく夜となく神戸の街を駆けずり回るなかで、僕はいつもSさんのことを考えてきた。何とかしてあげたかったけれども、何にもしてあげられないのだ。焼け野原になった長田で、どうすることもできない無力な自分に涙した。せめて、Sさんと同じ時間、同じ空間に僕はいようと思った。Sさんと勇気を共有しようと思った。
しかし、被災七日目、疲労が徐々に蓄積していて、とうとう僕は切れた。後続で入ってきたボランティアが興奮気味に焼け野原になった長田の被害を語っている。非日常の世界に放り込まれたばかりの彼らにはいたしかたないことかもしれない。しかし、隣には両親を亡くしたSさんがいるのだ。Sさんはあの焼け跡から、まだ両親の骨さえ拾っていないのだ。
僕は彼らを裏に呼び出し、思いっきり「おめえら、はしゃぐんじゃねえよ」とやってしまった。どうにも気がたっていて、自分の感情がセーブできなくなっていた。
黙らせてはみたものの、いかんなあ、そろそろ限界かなと思った。言い方が、あまりにも大人げなかった。一緒に入ったメンバーは、それぞれ東京に引き上げていて、もう誰も神戸には残ってはいなかった。いよいよ終わりかな。帰ろう。翌日、僕は神戸を引き揚げることにした。別れ際、Sさんに「落ち着いたらまた会いに来ます」と再会を約束した。握手を求めるとSさんは、目にいっぱい涙をため、それでもにっこりと笑い、握り返してきた。僕はSさんを思いっきり抱きしめたくなった。いつの日か、僕はSさんのような人間になれるかな。あれから14年たった今でも、Sさんは僕の中の「地上の星」なのだ。
神戸を後にした僕は、とりあえず大阪のホテルで一週間ぶりの風呂に入った。垢だらけだった。湯船につかっているとそのまま寝てしまいそうだった。
朝、目が覚めると、いままで感じなかった鈍痛のような疲れが体中に現れていた。
そうだ、大阪まで来ているのだ。家内を見舞っておこうと思った。阪神電車なら行けるはずだ。しかし、早朝でもあり、見舞い品になるものは何もなかった。駅に向かう途中、マクドナルドが、スヌーピーのぬいぐるみをプレゼントするキャンペーンをしていたので、僕は粗品がもらえるだけのマックを買って病院に向かった。
家内は、スヌーピーよりもマックを喜び、病室の仲間たちに「マクドやで」といってお裾わけをし、無邪気にはしゃいだ。その妻の笑顔を僕は遠い世界のできごとのように見つめていた。
神戸にて
30代の頃、僕はかなりのワーカーホリックで、ひどいときには月のうち半分以上徹夜という時期もあった。仕事が面白くて、やりがいがあり、毎日が楽しくて仕方がない時代だった。その分、家庭をほったらかしだったかというと、そんなこともなく、休みが取れれば、家内と二人、近くの海や山にドライブを楽しんだり、沖縄旅行をしたし、買い物も散歩もいつも一緒に出掛けたものだ。僕たちの恒例のイベントは、お正月とお盆の家内の実家への里帰りだ。ラッシュを避けて二週間くらい早く、家内一人で里帰りをさせ、実家で羽根を伸ばさせた後、僕が迎えに行くような形で尼崎まで出向くのだ。
1994年の暮れ、いつものように一足先に実家に帰っていた家内と尼崎で合流し、新年を家内の実家で迎えた。その家内が新年早々、体の異常を訴えたため、尼崎の病院で診察を受けさせた。その結果、甲状腺機能亢進症と診断され即、入院。僕は家内を病院に置いて一人で帰京した。
それから約二週間後、神戸の大地が揺れた。
地震は地を裂き、建物を薙ぎ払った。
第一報は入院中の家内から入った。
「すっごい揺れやったでぇ~」
「大丈夫か」
「大丈夫や、電話かけてるやん」
家内は東京暮らしにもなれ、地震も何度か経験していて、妙に余裕綽々だ。
しかし、それから間もなくして、ニュースを見ていた僕は、神戸がただならぬ事態になっていることを知る。阪神高速が落ちたというのだ。
おいおい、それはロサンゼルス大地震なみの被害じゃないか。
僕の脳裏に雑誌などで報道されたあのロサンゼルス大地震の壮絶な被害状況が浮かんだ。
当時、僕はある雑誌の創刊にかかわっていて、ともかく現地にいく必要性を痛感した。現場に行けば何かある。現地に行かなければ何もわからない。すぐメンバーを集め、一週間ほどの旅の身支度を整えさせ、車でその日のうちに神戸を目指したのだった。
出発は夕方に差し掛かっていた。夜通し、車を駈けて名阪国道から大阪に入る。コンビニで食料を調達し、大阪市内を抜け、家内が入院していた大物にある県立病院の横を通って2号線から43号線に移る。43号線に入ったのは、道路が広く車線がたくさんあるからだ。流れが滞るとときどき海側に外れてみる。しかし、これが計算外で、海に近いエリアは液状化現象で道路に段差ができている。しかたなく、また43号線に戻るはめになる。そんなことを何度か繰り返し、戻ってきた43号線がかなり狭い。 「あれ」と思いながら車を走らせていた。
そのときだ。
「あっ」と思わず声をあげた。狭くなった道の理由がわかった。
車を止め、外に出る。なんと、壁だと思ったものは、ほかならぬ高速の路面だ。この場所こそ、横倒しになった阪神高速だったのだ。
倒れた斜面の向こうに皓々と月が照っていた。神戸に入って初めて死の恐怖を感じた。災害の規模のあまりの大きさに、当時の風潮でもあった世紀末的恐怖も重なった。これ以降、倒壊家屋、火事、焼け跡、いろいろな地獄絵を見たが、神戸に入って初めて味わったこの瞬間の恐怖が一番強烈だった。
三宮の手前で、いよいよ車は進めず、乗り捨てて僕らは歩き始めた。歩きながら夜が明けた。露わになってみると、その被害はすさまじかった。木造家屋は倒れるというものではない。木端微塵なのだ。一面の倒壊家屋、三宮ではビルが横倒しになり道路を完全に塞いだ。地震から一日しかたっていない朝だった。
やがて、電気が復旧したせいなのだろうか、火災が発生した。火災になっても消防車は来ない。火は瞬く間に広がる。そうこうしているうちに、全く別のところからも火の手が上がった。被災地の緊張感が一段と高まった。
いくつかの地域で救援活動が始まっていた。僕はその一つをベースにして、救援活動をしながら、取材を続けることにした。一番、被害の大きかった長田は一面の焼け野原になっていた。一週間、取材と救援活動を続けた。休憩時間には、一種に物資の配給をしていたボランティアの人とよく話をした。救援ボランティアの中で人一倍、誠実に一生懸命働くSさんと友人になる。50代のおばちゃんだ。話していて、ところどころ言っている意味がわからなくなる。どうも話の前提がかみ合わないのだ。
「どちらの方ですか」
僕が思わず聞くと
「長田です」と答えた。
実は、Sさん自身が被災者だったのだ。地震のときには箪笥が寝ているSさんの左右に倒れてきたという。暗闇の中でしばらく身を潜めていたが、ふと両親が気になって、両親の住む長田の密集地・鷹取商店街に走った。しかし、長田では、もはや火の手が上がっていて、まったく前に進めない状況。呆然と火事を見つめるしかなかった。二日間、避難所や焼け跡で両親を探し、途方に暮れ、そして泣き暮れた。
しかし、臨時の避難所に身を寄せていて、みんなが打ちひしがれている姿を見て、これではだめだと思ったのだという。テレビを見れば、みんな心がすさみ、
「だれが責任とってくれるんや」
「国が責任とれ」
と罵る。その一方で、避難所などでは、みんなが放心状態で希望を失っている姿も見た。
(誰かのせいにしている暇なんかない。みんな絶望して打ちひしがれている。だからこそ、行動すべきなのだ。私は動ける。いま、困っている人を何とかしなければ……)。
Sさんは、そう思って、復興支援のボランティア活動に飛び込んだのだという。それから僕は神戸を離れるまで、ずっとSさんと一緒にボランティア活動を続けた。
Sさんは、僕がこれまでに出会った人の中で、誰よりも気高い人だった。優しさとか愛とか誠実さとか、口にするのは簡単だ。しかし、往々にして、自分が機嫌のいい時、都合のいい時のものではないのか。悲しみに打ちひしがれ、もう誰も愛せないような状態のときに、それでもあなたは人を愛することができるか、それを僕たちは問われているのではないのか。Sさんは、両親を失った悲しみの中で、それでも自分のことをすべて後回しにして、人のために生きたのだ。
炊き出しから、物資の運搬など、ボランティアがする仕事は山ほどあった。昨日がいつで今日がいつなのかもわからない。時間に関する記憶がなくなってしまう。僕は、睡眠もほとんどとらず、寝れるときだけ、救援物資の衣料品の中に潜り込み、夜となく昼となく働き続けた。それはSさんも同じだ。しかし、不思議なことに、僕たちと同じように働いているSさんなのに、僕たちがどんな時間に戻って来ても、ボランティア用の賄いをすぐ用意してくれた。
昼となく夜となく神戸の街を駆けずり回るなかで、僕はいつもSさんのことを考えてきた。何とかしてあげたかったけれども、何にもしてあげられないのだ。焼け野原になった長田で、どうすることもできない無力な自分に涙した。せめて、Sさんと同じ時間、同じ空間に僕はいようと思った。Sさんと勇気を共有しようと思った。
しかし、被災七日目、疲労が徐々に蓄積していて、とうとう僕は切れた。後続で入ってきたボランティアが興奮気味に焼け野原になった長田の被害を語っている。非日常の世界に放り込まれたばかりの彼らにはいたしかたないことかもしれない。しかし、隣には両親を亡くしたSさんがいるのだ。Sさんはあの焼け跡から、まだ両親の骨さえ拾っていないのだ。
僕は彼らを裏に呼び出し、思いっきり「おめえら、はしゃぐんじゃねえよ」とやってしまった。どうにも気がたっていて、自分の感情がセーブできなくなっていた。
黙らせてはみたものの、いかんなあ、そろそろ限界かなと思った。言い方が、あまりにも大人げなかった。一緒に入ったメンバーは、それぞれ東京に引き上げていて、もう誰も神戸には残ってはいなかった。いよいよ終わりかな。帰ろう。翌日、僕は神戸を引き揚げることにした。別れ際、Sさんに「落ち着いたらまた会いに来ます」と再会を約束した。握手を求めるとSさんは、目にいっぱい涙をため、それでもにっこりと笑い、握り返してきた。僕はSさんを思いっきり抱きしめたくなった。いつの日か、僕はSさんのような人間になれるかな。あれから14年たった今でも、Sさんは僕の中の「地上の星」なのだ。
神戸を後にした僕は、とりあえず大阪のホテルで一週間ぶりの風呂に入った。垢だらけだった。湯船につかっているとそのまま寝てしまいそうだった。
朝、目が覚めると、いままで感じなかった鈍痛のような疲れが体中に現れていた。
そうだ、大阪まで来ているのだ。家内を見舞っておこうと思った。阪神電車なら行けるはずだ。しかし、早朝でもあり、見舞い品になるものは何もなかった。駅に向かう途中、マクドナルドが、スヌーピーのぬいぐるみをプレゼントするキャンペーンをしていたので、僕は粗品がもらえるだけのマックを買って病院に向かった。
家内は、スヌーピーよりもマックを喜び、病室の仲間たちに「マクドやで」といってお裾わけをし、無邪気にはしゃいだ。その妻の笑顔を僕は遠い世界のできごとのように見つめていた。
2008年08月05日
piece11 家族の絆
piece11 家族の絆
変わるもの、変わらぬもの、一生を貫くもの、転生を貫くもの
母は最初の結婚に失敗し、兄を連れて、新潟の実家に帰った。地方都市の狭い世間だったろうから、そこは必ずしも居心地のいいところであるはずもない。やがて母は、人生の次なる一歩を踏み出すべく、新天地を求めて東京に出る。どういう判断が働いたのかは知らぬが、兄は実家に置いていかれた。学もなく、手に職もない田舎者の女が都会に出ていくには、それ相応の覚悟が必要だったはずで、子供を連れてはとても戦えない未来を感じていたことだろう。
新潟の母の実家に行くと、必ず語り草になるのが、母においていかれた兄は毎日信濃川の河口で泣いていたという話だ。叔母も祖母も不憫でどうすることもできなかったという。やがて、母は再婚し、兄は東京に引き取られる。
一人の女の人生の再生譚としては、それなりの思慮と勇気と努力を評価するべきなのだろうが、ひとえに未就学期の児童の立場で考えれば、それは過酷な幼児体験となるのではないか。母と共に上京する上越線の車中で、兄はいったい何を考えたのだろう。
住んだ先は東京の台東区根岸だ。東京の下町の象徴のような街で、おまけに見ず知らずの男が今日から父親だということになる。父は母の連れ子である兄と実子である姉や僕と差別をすることは決してなかった。それは立派といえば立派なのだが、問題は、どの子どもにとっても父親失格の放蕩者という意味で平等だったということだ。
振り返ってみれば、僕と兄は必ずしも仲がいいわけではなかった。「いいわけではない」とは言っても、それは必ずしも仲が悪いという意味でもない。そもそも我が家は貧しかったので、部屋も狭く、家族5人が肩寄せ合って生活してきたので、家族といえどもプライバシーも何もあったものではない。何が起きるかといえば、踏み込んではならない個人の領域に、ずかずかと土足で入ってしまい、いきなりのバトルが始まるということなのだ。お互いの距離の取り方を知らないというよりは、距離の取りようがなかったのだ。
おまけに九歳も歳が離れていると、兄弟であっても上下関係は歴然としていて、時として兄は父親の代わりを自覚せざるを得ない場面もあっただろう。僕としては、それはただの暴君にしか見ることができず、当然のごとく反発心もわいてくる。成長するにつれ、僕は兄がますます疎ましくなっていった。一つしかないテレビのチャンネルは常に支配される。成績が悪ければ、クラブを辞めさせられる。
兄は兄で、幼少時から孤独ということに傷つき続けている。自分の言動に弟が辟易していることは敏感に察知する。それが兄の自己嫌悪につながり、孤独への不安を助長し、苛立ちを増していくという悪循環にもなっていく。その構図はかなり後まで続いていたのではないか。単純に疎遠になってしまえば、それはそれでお終いの話なのだが、やはり貧困の中を家族が支え合って生きてきた歴史があるので、何かあれば家族回帰していくことになる。家族が大事だという我が家の暗黙のルールは壊されることはなかった。
しかし、距離をとりそこなって起きる諍いもまた、家族の結束と同じだけ続いていたのも事実だ。父親が死んだあと、実はその関係が決定的に険悪になり、一度は、一生、兄弟の縁を切るというところまでこじれていったのだった。
やがて、それぞれの人生も慌ただしくなった。僕は、妻と死別し、沖縄に移り住むことになった。兄も娘たちが成長し、日々の生活も慌ただしさを増してくるようになった。そして、お互いがお互いの年齢すら意識しないまま時は流れ、僕は50歳の大台に乗り、兄は還暦を目前にするまでになった。
2009年の1月、ひょんなことから、僕らは二人で旅行することになった。本当は大学に合格した兄の長女を、ご褒美に沖縄に連れて行ってやるということになったのだが、それなら次女も一緒にと計画は膨らみ、膨らんでしまった挙句、子供たち二人の休みのスケジュールが調整つかなくなり、だったら、兄と二人で行ってみるかと、話はどんどん変形してしまったのだ。おまけに、スケジュールの初めに、僕に石垣での講演の仕事が入ってしまい、結局、石垣と沖縄を巡る4泊5日+都内一泊の旅になってしまった。
兄弟二人きりで旅行をしたのは久しぶり、というよりは初めてではないだろうか。一泊のみの旅とか、姉を含めた三人での旅行は記憶にはあるのだが、50年目の旅はある感慨をもって僕に迫ってきた。それは、お互いに「歳をとった」ということだ。
そもそも兄と僕は、一日一緒にいれば、必ずどこかで喧嘩が起きて、お互い気まずい思いをする羽目になる仲なのだ。旅の途中で、そんな瞬間も少なからずあった。しかし、僕も、少年時代のように卑屈になりようがなかったし、兄も、弟は自分が支配できる存在でなくなったことくらいわかる。暴君であった兄は、僕に対して、時として、親に叱られる子供のようにしょぼくれたかと思えば、青臭い学生仲間のように、一献を傾けながら芸術論を交わしたりもした。兄は兄で、何年経とうと、どこまで行っても弟にすぎない部分を嗅ぎ取っただろうし、その一方で自分の理解の及ばぬ全く別の世界に生きている一人の男の姿も垣間見たことだろう。
何よりも、僕らは、歳を取ることによって多くを許すことができるようになった。お互い体も若い時のようには動かない。お互いに背負っている人生も変わってしまった。違う個を違う個として認め合わざるを得ない現実を思い知らされることになったのだ。
石垣をドライブし、僕の仕事の最中は、兄だけ竹富島に渡した。本島に戻ってからも水族館、首里城、古宇利島と、精力的に観光ポイントを回った。僕は僕なりにとっておきのスペシャルスポットをセレクトし、兄を案内した。名護に新築された僕の家を訪れたのは、家族では兄が初めてだった。
最終日、翌朝の飛行機の都合で那覇に宿をとった。旅は終わろうとしていた。僕は兄に聞いた。
「どこか行きたいところはないか」
「骨董屋に行きたいのだ」
兄がそんなに現金を持っているはずはないし、僕ももうカードに頼るしかない。掘り出し物があれば、惜しげもなく買ってしまう芸術家気質を僕は知っている。少し不安になりながら、タクシーの運転手に聞いて、那覇の焼き物関係の店が集まる壷屋の外れの骨董屋に向かった。ひめゆり通りから壷屋通りに入った最初の店だった。
「これは喜名焼き。三万です」
「これは中国のもの。二万」
店主の説明を聞いているのかいないのか、兄は真剣な目効きを続ける。そのうちに
「破損品を接がないほうがいい」と店主に講釈を垂れ始めた。
「壊れるというのは自然なのだが、接いだあとは不自然で違和感が残る」
こんな調子で何件回るつもりなのか。そのうち兄は玄関先に放ってある甕の値段を聞いた。口が欠けていた。骨董価値は低そうだ。
「これは3000円ですね」
兄はそれからまた、しばらく店内をなめまわし、最終的にその3000円の甕を自分で買ったのだった。店を出て、いったんホテルに戻ることにしたのだが、車中で兄は一変して饒舌になった。まるでお気に入りのおもちゃを手に入れて無邪気に喜ぶ子供のようだった。
「すごい掘り出し物だ。俺は年代物がほしいのではない。美しいものがほしいのだ」
実は店に入る前に、目星を付けていたこと。その他の骨とう品は値段相応であったこと。それからすれば、3000円の甕は破格の値段であったことを話し続けた。そして愛おしそうに包まれた甕を両手で抱え、ほんとうに幸せそうに「いやあ、素晴らしい旅であった」とつぶやいた。そういう無邪気な笑顔を眺めながら、僕もたまらなく幸福な気持ちになり、二人で旅をしてよかったと思った。そして、兄が心の底から愛おしく感じられた。
「何なのだ」
僕は心の中でつぶやいた。
「この男はいったい何なのだ」
僕は、兄と僕をつなぐ50年の記憶を何度もたどろうとした。人生の喜び、苦しみ、憎しみ、僕らはそれらを共有したばかりか、常に当事者だったのだ。そして、その関係はどうしても僕の50年の記憶の中には収まり切らないような数々の果実をももたらした。それがいったい何なのか。
ブライアン・L・ワイス博士の前世療法や、前世紀後半にアメリカで起きた霊性復興運動などでは、ソウルメイトという概念を生み出している。転生輪廻というのが、個ではなく縁ある集団によって行われているという説だ。生まれ変わる時に、家族や友人、師弟関係など、その人の人生を構成する重要人物は、それぞれの役割を変えながら、再構成されるということらしい。ということは、何回もの生まれ変わりの中で、この男は、僕の子供になり、兄になり、ときには敵になったりしながら、この地上での何10年間かの人生を、何代も共有してきたということか。
そう言われてみても、僕は抗うどのような理由も見つけられない。この男が僕の人生の中にいるということが、何がしかの意味を持ち、影響を与え続けたことは否定のしようもないことだ。そして、小さな巣の中で肩寄せ合う雛たちのような親近感を超えて、いま、一人の人間としての労わりと愛おしさと尊敬を感じないわけにはいかないのだ。父でもない、友人でもない、師弟でもない、ある特殊な人間関係を、まもなく還暦を迎える兄の中に、僕はこの旅で見つけたような気がした。
変わるもの、変わらぬもの、一生を貫くもの、転生を貫くもの
母は最初の結婚に失敗し、兄を連れて、新潟の実家に帰った。地方都市の狭い世間だったろうから、そこは必ずしも居心地のいいところであるはずもない。やがて母は、人生の次なる一歩を踏み出すべく、新天地を求めて東京に出る。どういう判断が働いたのかは知らぬが、兄は実家に置いていかれた。学もなく、手に職もない田舎者の女が都会に出ていくには、それ相応の覚悟が必要だったはずで、子供を連れてはとても戦えない未来を感じていたことだろう。
新潟の母の実家に行くと、必ず語り草になるのが、母においていかれた兄は毎日信濃川の河口で泣いていたという話だ。叔母も祖母も不憫でどうすることもできなかったという。やがて、母は再婚し、兄は東京に引き取られる。
一人の女の人生の再生譚としては、それなりの思慮と勇気と努力を評価するべきなのだろうが、ひとえに未就学期の児童の立場で考えれば、それは過酷な幼児体験となるのではないか。母と共に上京する上越線の車中で、兄はいったい何を考えたのだろう。
住んだ先は東京の台東区根岸だ。東京の下町の象徴のような街で、おまけに見ず知らずの男が今日から父親だということになる。父は母の連れ子である兄と実子である姉や僕と差別をすることは決してなかった。それは立派といえば立派なのだが、問題は、どの子どもにとっても父親失格の放蕩者という意味で平等だったということだ。
振り返ってみれば、僕と兄は必ずしも仲がいいわけではなかった。「いいわけではない」とは言っても、それは必ずしも仲が悪いという意味でもない。そもそも我が家は貧しかったので、部屋も狭く、家族5人が肩寄せ合って生活してきたので、家族といえどもプライバシーも何もあったものではない。何が起きるかといえば、踏み込んではならない個人の領域に、ずかずかと土足で入ってしまい、いきなりのバトルが始まるということなのだ。お互いの距離の取り方を知らないというよりは、距離の取りようがなかったのだ。
おまけに九歳も歳が離れていると、兄弟であっても上下関係は歴然としていて、時として兄は父親の代わりを自覚せざるを得ない場面もあっただろう。僕としては、それはただの暴君にしか見ることができず、当然のごとく反発心もわいてくる。成長するにつれ、僕は兄がますます疎ましくなっていった。一つしかないテレビのチャンネルは常に支配される。成績が悪ければ、クラブを辞めさせられる。
兄は兄で、幼少時から孤独ということに傷つき続けている。自分の言動に弟が辟易していることは敏感に察知する。それが兄の自己嫌悪につながり、孤独への不安を助長し、苛立ちを増していくという悪循環にもなっていく。その構図はかなり後まで続いていたのではないか。単純に疎遠になってしまえば、それはそれでお終いの話なのだが、やはり貧困の中を家族が支え合って生きてきた歴史があるので、何かあれば家族回帰していくことになる。家族が大事だという我が家の暗黙のルールは壊されることはなかった。
しかし、距離をとりそこなって起きる諍いもまた、家族の結束と同じだけ続いていたのも事実だ。父親が死んだあと、実はその関係が決定的に険悪になり、一度は、一生、兄弟の縁を切るというところまでこじれていったのだった。
やがて、それぞれの人生も慌ただしくなった。僕は、妻と死別し、沖縄に移り住むことになった。兄も娘たちが成長し、日々の生活も慌ただしさを増してくるようになった。そして、お互いがお互いの年齢すら意識しないまま時は流れ、僕は50歳の大台に乗り、兄は還暦を目前にするまでになった。
2009年の1月、ひょんなことから、僕らは二人で旅行することになった。本当は大学に合格した兄の長女を、ご褒美に沖縄に連れて行ってやるということになったのだが、それなら次女も一緒にと計画は膨らみ、膨らんでしまった挙句、子供たち二人の休みのスケジュールが調整つかなくなり、だったら、兄と二人で行ってみるかと、話はどんどん変形してしまったのだ。おまけに、スケジュールの初めに、僕に石垣での講演の仕事が入ってしまい、結局、石垣と沖縄を巡る4泊5日+都内一泊の旅になってしまった。
兄弟二人きりで旅行をしたのは久しぶり、というよりは初めてではないだろうか。一泊のみの旅とか、姉を含めた三人での旅行は記憶にはあるのだが、50年目の旅はある感慨をもって僕に迫ってきた。それは、お互いに「歳をとった」ということだ。
そもそも兄と僕は、一日一緒にいれば、必ずどこかで喧嘩が起きて、お互い気まずい思いをする羽目になる仲なのだ。旅の途中で、そんな瞬間も少なからずあった。しかし、僕も、少年時代のように卑屈になりようがなかったし、兄も、弟は自分が支配できる存在でなくなったことくらいわかる。暴君であった兄は、僕に対して、時として、親に叱られる子供のようにしょぼくれたかと思えば、青臭い学生仲間のように、一献を傾けながら芸術論を交わしたりもした。兄は兄で、何年経とうと、どこまで行っても弟にすぎない部分を嗅ぎ取っただろうし、その一方で自分の理解の及ばぬ全く別の世界に生きている一人の男の姿も垣間見たことだろう。
何よりも、僕らは、歳を取ることによって多くを許すことができるようになった。お互い体も若い時のようには動かない。お互いに背負っている人生も変わってしまった。違う個を違う個として認め合わざるを得ない現実を思い知らされることになったのだ。
石垣をドライブし、僕の仕事の最中は、兄だけ竹富島に渡した。本島に戻ってからも水族館、首里城、古宇利島と、精力的に観光ポイントを回った。僕は僕なりにとっておきのスペシャルスポットをセレクトし、兄を案内した。名護に新築された僕の家を訪れたのは、家族では兄が初めてだった。
最終日、翌朝の飛行機の都合で那覇に宿をとった。旅は終わろうとしていた。僕は兄に聞いた。
「どこか行きたいところはないか」
「骨董屋に行きたいのだ」
兄がそんなに現金を持っているはずはないし、僕ももうカードに頼るしかない。掘り出し物があれば、惜しげもなく買ってしまう芸術家気質を僕は知っている。少し不安になりながら、タクシーの運転手に聞いて、那覇の焼き物関係の店が集まる壷屋の外れの骨董屋に向かった。ひめゆり通りから壷屋通りに入った最初の店だった。
「これは喜名焼き。三万です」
「これは中国のもの。二万」
店主の説明を聞いているのかいないのか、兄は真剣な目効きを続ける。そのうちに
「破損品を接がないほうがいい」と店主に講釈を垂れ始めた。
「壊れるというのは自然なのだが、接いだあとは不自然で違和感が残る」
こんな調子で何件回るつもりなのか。そのうち兄は玄関先に放ってある甕の値段を聞いた。口が欠けていた。骨董価値は低そうだ。
「これは3000円ですね」
兄はそれからまた、しばらく店内をなめまわし、最終的にその3000円の甕を自分で買ったのだった。店を出て、いったんホテルに戻ることにしたのだが、車中で兄は一変して饒舌になった。まるでお気に入りのおもちゃを手に入れて無邪気に喜ぶ子供のようだった。
「すごい掘り出し物だ。俺は年代物がほしいのではない。美しいものがほしいのだ」
実は店に入る前に、目星を付けていたこと。その他の骨とう品は値段相応であったこと。それからすれば、3000円の甕は破格の値段であったことを話し続けた。そして愛おしそうに包まれた甕を両手で抱え、ほんとうに幸せそうに「いやあ、素晴らしい旅であった」とつぶやいた。そういう無邪気な笑顔を眺めながら、僕もたまらなく幸福な気持ちになり、二人で旅をしてよかったと思った。そして、兄が心の底から愛おしく感じられた。
「何なのだ」
僕は心の中でつぶやいた。
「この男はいったい何なのだ」
僕は、兄と僕をつなぐ50年の記憶を何度もたどろうとした。人生の喜び、苦しみ、憎しみ、僕らはそれらを共有したばかりか、常に当事者だったのだ。そして、その関係はどうしても僕の50年の記憶の中には収まり切らないような数々の果実をももたらした。それがいったい何なのか。
ブライアン・L・ワイス博士の前世療法や、前世紀後半にアメリカで起きた霊性復興運動などでは、ソウルメイトという概念を生み出している。転生輪廻というのが、個ではなく縁ある集団によって行われているという説だ。生まれ変わる時に、家族や友人、師弟関係など、その人の人生を構成する重要人物は、それぞれの役割を変えながら、再構成されるということらしい。ということは、何回もの生まれ変わりの中で、この男は、僕の子供になり、兄になり、ときには敵になったりしながら、この地上での何10年間かの人生を、何代も共有してきたということか。
そう言われてみても、僕は抗うどのような理由も見つけられない。この男が僕の人生の中にいるということが、何がしかの意味を持ち、影響を与え続けたことは否定のしようもないことだ。そして、小さな巣の中で肩寄せ合う雛たちのような親近感を超えて、いま、一人の人間としての労わりと愛おしさと尊敬を感じないわけにはいかないのだ。父でもない、友人でもない、師弟でもない、ある特殊な人間関係を、まもなく還暦を迎える兄の中に、僕はこの旅で見つけたような気がした。
2008年08月03日
piece12 母の一生 そのかそけき一輪の花に――
piece12 母の一生
そのかそけき一輪の花に――
昭和33年、33歳で母は僕を生んだ。僕の年齢に33を足せば母の年齢になる。ということは、現在84歳。もう十分、高齢だ。
「子供たちにも家庭がある。迷惑だけはかけたくない」と言って、気丈にも一人暮らしを続けていたが、近年、認知症の兆候が現れ、兄や姉の世話になりながら、晩年を過ごしているのだ。
母もやがて、いつかこの世を去る日が来るのだろう。それはそう遠い未来のことではあるまい。僕は最近、必ず訪れるであろうその日のことを思うたびに、何とも言えない焦燥感を覚えるのだ。
子供のころから野放図で、真面目に生きるということがなかなかできない人間に育ったことを、「お金がなかったから仕方なかったけれど、お前をほったらかしに育てたことを後悔している」と言われれば、それ自体が親不幸な馬鹿息子を象徴するようで、忸怩たる思いを禁じ得ない。しかし、もういまの僕には、母のために何かをしようにも何もしてあげられないし、仮に、この世的な何かをしてあげたいと思っても、もはやそれにどれほどの意味があるのかわからない。僕という存在を通して、母の一生に、一筋の光を見い出そうにも、いったい僕にどれほどのことができるのかを考えると、母について書く筆を何度も躊躇させた。
ほとんどの子供がきっとそうであるように、少年だった僕にとっての母は神さまのような存在だった。優しさと絶対的な安心感、ぬくもり。母親というのはそういうものだ。僕は人見知りの激しい子供だった。他人に顔を覗かれるだけで、火がついたように泣きじゃくったという。仮に父親であっても、母の背から奪い取られることを拒む子供だった。早い話がかわいげのない子だったのだ。そんなことは無論、覚えているはずもいないが、母にしがみついている安堵感だけは妙に僕の記憶に残っている。
そして、大人になっていく過程で、僕は、その神近き存在が、実は、濁世を生きる一人の人間であり、女であり、運命やら人間関係やら貧困やらに翻弄されながら、さまざまな渦の中に浮かんでは沈み、流されていく小さな存在であることを知っていくのだ。
※
小学校に入る前に、仕事の関係で父を残して、一家は東京都下の公営住宅に引っ越した。やがて、僕が小学校に入ると、母は仕事を再開し、僕はカギっ子になった。カギっ子というのは語弊があって、どうせ盗むものなど何もないという理由で、我が家は施錠などしたことがなかった。僕は家に帰ると、窓をあけ、そこからカバンを放り投げて、そのまま友達の家によく遊びに行ったものだ。
僕の記憶に残る母は、夕方、もう日の暮れかかる時間に帰ってくる母の姿だ。その両手には、家族の夕飯、翌日の朝食とお弁当のおかずとなる食材を重たそうに持っている。遠くに母の姿を見つけると、僕は必死に駆け寄っていって、その荷物を代わりに持つのだ。そして荷物を覗き見ながら、今日の夕飯のおかずが何か、夜のおやつは何かを無邪気に想像するのだった。
ある日のこと、それは少なくても我が家に電話の入った後だから、小学校5年か6年だと思うのだが、たまたま家にいた僕は、母から「財布を忘れたから、工場まで持ってきてちょうだい」という電話を受けた。母の職場は町の西のはずれにあった。家から小学校までは歩いて約15分。その先、同じぐらい歩くと、いつも僕たちが野球をする富士重工のグラウンドがあった。僕の平素の行動範囲はこのグラウンドまでで、そこから先は、ほとんど行ったことがない。しかし、グラウンドからさらにもう15分くらい歩くと、森永やカシオに代表される工場群があって、その一角に母の勤める町工場はあった。
工場の前に立っても自分とは何の関係もない時間が流れているようだった。かまってもらえぬ子供のように為すすべもなく、僕は工場の前で待った。しばらくすると一人の中年の女性が工場から出てきた。僕は必死で、その女性を呼びとめたのだ。
「あ、あの、根岸といいます」
女性は僕を一瞥すると、無関心そうに
「ああ、根岸さんの息子さんね」
と言い、工場の奥に向かって「根岸さん!」と呼んだ。
母はその女性に何度も頭を下げながら外に出てきた。その姿は、僕がふだん見ている母とは別の人のようだった。僕の知らない社会の中で、母がたった一人で戦っていることを知った。その眼鏡には機械油が付いていた。極度の近眼だった母にとって装身具の中で一番大切なものは、眼鏡だった。そんなことなど、それまで思ってもいなかったくせに、その機械油を見た途端、眼鏡は母の苦労の象徴であり、母の尊さの象徴であるように思えた。
※
それから間もなく、父が転職し、家族五人で暮らせることになった。それはそれで、新たな火種を生んだ。あるとき、父の仲間たちが家で酒盛りを始めた。酒嫌いの母にしては、機嫌よく、肴を用意していた。僕は酒を飲む父の横で、大人たちの会話を楽しんでいた。子供として愛想良く振舞うことで父たちに用意されたご馳走を分けてもらえたし、僕は僕で父と一緒にいることがそうそうある機会ではなく、楽しかったのだ。
座が盛り上がってくると、僕は調子に乗って、父のコップに手をつけた。もちろん、大人がどんな反応をするか、お調子者のいたずらに過ぎなかったのだが、父がそれほど好きなお酒というものがどんなものなのか、好奇心を抑えることはできなかった。
それは別にどうという事のない飲み物だった。美味いともいえなかったし、不味いというものでもなかった。ひとくち口をつけて僕は父の顔を覗き見た。父は少し真顔に戻って「やめろ」と僕を諌めた。それでも僕は、調子に乗って、ときどきコップに手を伸ばした。
しばらくして、父たちは河岸を変えるために座を開き、家を出て行った。母はお膳を片付け、父たちの残したおかずを取り分け、その日、残された家族は遅めの夕飯を済ませた。
夕食後、どういう経緯でだったのか記憶にないが(僕が自慢げに白状したのかもしれない)、僕が父の酒に手を出したことが、母に知られるところとなる。
母の顔色がみるみる変わった。怒りを全身から発散させ、大声で僕の名を叫んだ。次の瞬間、母ははたきをわしづかみにし、その柄で僕を殴りつけた。僕は驚きと恐怖と痛みから火のついたように泣き叫んだ。兄も姉もあっけに取られてその様子を見ていた。僕がどんなに泣き叫んでも、母は怯むことはなく僕を何度も打ち据えた。
「お父さんのようにお酒のみになったらどうする」
「子供がお酒なんか悪戯して」
僕は今でもそれが、僕の悪さを咎めるためであるとか、将来の教育のためだとか思ってはいない。それは母の憎しみだったのだ。父に対する、父の酒に対する、家族を不幸せにするその酒に対する、抑えることのできない憎しみだったのだ。自分の享楽のために家族をないがしろにして恬として恥じない、ひとりの男への恨みを心の底に潜め、その憎しみのためにひとりの修羅となった女。それが母であることを僕はそのとき知った。
※
還暦を迎えたとき、母は感慨深げに言ったものだ。
「きょうまで、わたしは自分のことで精一杯だった。これからは自分のためだけではなく生きたい。ずうっとそう思ってきた」
子供たちはみな独立したし、経済的にも、豊かになったわけではないがきょう食う米に困るようなことはなくなっていた。親族の中に、子供の進学などで経済的に困っている人がいれば、躊躇なく資金を送ったり、佐渡にある菩提寺が山門の改修をすると言えば、幾ばくかの金銭を送金していた。「いままでいろいろな人に助けられてきたんだから」。それは母の真心からの実感なんだろう。父が死んで一人暮らしになって、公営住宅の家賃が福祉的措置で数千円になれば、「そんな金額で住まわせてもらうわけにはいかない。年金者はそんなにお金も使わない。困っているのは若い人たちなのに」と言って正規の家賃を払い続けようとまでした。
世間的に見れば、どこにでもいるような薄幸の女性ではある。しかし、僕にとって若き日の母は、あくまでも神のような存在だったのだ。そしてその虚像を剥ぐかのように、神は人間になり、女になった。そしていま、僕の中では、一度、人間の女となった存在の中に、再び神を見る作業が行われている。泥中に咲く一輪の花として、その姿を心に焼き付けておきたいのだ。
その日を僕はどんな心で迎えるのだろう。僕はふっと妻を亡くした時の喪失感を思い出す。ただ、80歳を過ぎた親がこの世を去るのは自然の理であり、僕ももはや取り乱したりはしないだろう。しかし、ひとつだけ僕の人生の中で、一度も経験したことのないある種の感情を予感する。
それは、僕のたった一人の味方を失う切なさ、僕の最後の味方を失う寂寥感だ。ほかの誰も母には変わりえない。そのあと、僕は再び新しい孤独に耐えて生きていかねばならぬのだろう。
そのかそけき一輪の花に――
昭和33年、33歳で母は僕を生んだ。僕の年齢に33を足せば母の年齢になる。ということは、現在84歳。もう十分、高齢だ。
「子供たちにも家庭がある。迷惑だけはかけたくない」と言って、気丈にも一人暮らしを続けていたが、近年、認知症の兆候が現れ、兄や姉の世話になりながら、晩年を過ごしているのだ。
母もやがて、いつかこの世を去る日が来るのだろう。それはそう遠い未来のことではあるまい。僕は最近、必ず訪れるであろうその日のことを思うたびに、何とも言えない焦燥感を覚えるのだ。
子供のころから野放図で、真面目に生きるということがなかなかできない人間に育ったことを、「お金がなかったから仕方なかったけれど、お前をほったらかしに育てたことを後悔している」と言われれば、それ自体が親不幸な馬鹿息子を象徴するようで、忸怩たる思いを禁じ得ない。しかし、もういまの僕には、母のために何かをしようにも何もしてあげられないし、仮に、この世的な何かをしてあげたいと思っても、もはやそれにどれほどの意味があるのかわからない。僕という存在を通して、母の一生に、一筋の光を見い出そうにも、いったい僕にどれほどのことができるのかを考えると、母について書く筆を何度も躊躇させた。
ほとんどの子供がきっとそうであるように、少年だった僕にとっての母は神さまのような存在だった。優しさと絶対的な安心感、ぬくもり。母親というのはそういうものだ。僕は人見知りの激しい子供だった。他人に顔を覗かれるだけで、火がついたように泣きじゃくったという。仮に父親であっても、母の背から奪い取られることを拒む子供だった。早い話がかわいげのない子だったのだ。そんなことは無論、覚えているはずもいないが、母にしがみついている安堵感だけは妙に僕の記憶に残っている。
そして、大人になっていく過程で、僕は、その神近き存在が、実は、濁世を生きる一人の人間であり、女であり、運命やら人間関係やら貧困やらに翻弄されながら、さまざまな渦の中に浮かんでは沈み、流されていく小さな存在であることを知っていくのだ。
※
小学校に入る前に、仕事の関係で父を残して、一家は東京都下の公営住宅に引っ越した。やがて、僕が小学校に入ると、母は仕事を再開し、僕はカギっ子になった。カギっ子というのは語弊があって、どうせ盗むものなど何もないという理由で、我が家は施錠などしたことがなかった。僕は家に帰ると、窓をあけ、そこからカバンを放り投げて、そのまま友達の家によく遊びに行ったものだ。
僕の記憶に残る母は、夕方、もう日の暮れかかる時間に帰ってくる母の姿だ。その両手には、家族の夕飯、翌日の朝食とお弁当のおかずとなる食材を重たそうに持っている。遠くに母の姿を見つけると、僕は必死に駆け寄っていって、その荷物を代わりに持つのだ。そして荷物を覗き見ながら、今日の夕飯のおかずが何か、夜のおやつは何かを無邪気に想像するのだった。
ある日のこと、それは少なくても我が家に電話の入った後だから、小学校5年か6年だと思うのだが、たまたま家にいた僕は、母から「財布を忘れたから、工場まで持ってきてちょうだい」という電話を受けた。母の職場は町の西のはずれにあった。家から小学校までは歩いて約15分。その先、同じぐらい歩くと、いつも僕たちが野球をする富士重工のグラウンドがあった。僕の平素の行動範囲はこのグラウンドまでで、そこから先は、ほとんど行ったことがない。しかし、グラウンドからさらにもう15分くらい歩くと、森永やカシオに代表される工場群があって、その一角に母の勤める町工場はあった。
工場の前に立っても自分とは何の関係もない時間が流れているようだった。かまってもらえぬ子供のように為すすべもなく、僕は工場の前で待った。しばらくすると一人の中年の女性が工場から出てきた。僕は必死で、その女性を呼びとめたのだ。
「あ、あの、根岸といいます」
女性は僕を一瞥すると、無関心そうに
「ああ、根岸さんの息子さんね」
と言い、工場の奥に向かって「根岸さん!」と呼んだ。
母はその女性に何度も頭を下げながら外に出てきた。その姿は、僕がふだん見ている母とは別の人のようだった。僕の知らない社会の中で、母がたった一人で戦っていることを知った。その眼鏡には機械油が付いていた。極度の近眼だった母にとって装身具の中で一番大切なものは、眼鏡だった。そんなことなど、それまで思ってもいなかったくせに、その機械油を見た途端、眼鏡は母の苦労の象徴であり、母の尊さの象徴であるように思えた。
※
それから間もなく、父が転職し、家族五人で暮らせることになった。それはそれで、新たな火種を生んだ。あるとき、父の仲間たちが家で酒盛りを始めた。酒嫌いの母にしては、機嫌よく、肴を用意していた。僕は酒を飲む父の横で、大人たちの会話を楽しんでいた。子供として愛想良く振舞うことで父たちに用意されたご馳走を分けてもらえたし、僕は僕で父と一緒にいることがそうそうある機会ではなく、楽しかったのだ。
座が盛り上がってくると、僕は調子に乗って、父のコップに手をつけた。もちろん、大人がどんな反応をするか、お調子者のいたずらに過ぎなかったのだが、父がそれほど好きなお酒というものがどんなものなのか、好奇心を抑えることはできなかった。
それは別にどうという事のない飲み物だった。美味いともいえなかったし、不味いというものでもなかった。ひとくち口をつけて僕は父の顔を覗き見た。父は少し真顔に戻って「やめろ」と僕を諌めた。それでも僕は、調子に乗って、ときどきコップに手を伸ばした。
しばらくして、父たちは河岸を変えるために座を開き、家を出て行った。母はお膳を片付け、父たちの残したおかずを取り分け、その日、残された家族は遅めの夕飯を済ませた。
夕食後、どういう経緯でだったのか記憶にないが(僕が自慢げに白状したのかもしれない)、僕が父の酒に手を出したことが、母に知られるところとなる。
母の顔色がみるみる変わった。怒りを全身から発散させ、大声で僕の名を叫んだ。次の瞬間、母ははたきをわしづかみにし、その柄で僕を殴りつけた。僕は驚きと恐怖と痛みから火のついたように泣き叫んだ。兄も姉もあっけに取られてその様子を見ていた。僕がどんなに泣き叫んでも、母は怯むことはなく僕を何度も打ち据えた。
「お父さんのようにお酒のみになったらどうする」
「子供がお酒なんか悪戯して」
僕は今でもそれが、僕の悪さを咎めるためであるとか、将来の教育のためだとか思ってはいない。それは母の憎しみだったのだ。父に対する、父の酒に対する、家族を不幸せにするその酒に対する、抑えることのできない憎しみだったのだ。自分の享楽のために家族をないがしろにして恬として恥じない、ひとりの男への恨みを心の底に潜め、その憎しみのためにひとりの修羅となった女。それが母であることを僕はそのとき知った。
※
還暦を迎えたとき、母は感慨深げに言ったものだ。
「きょうまで、わたしは自分のことで精一杯だった。これからは自分のためだけではなく生きたい。ずうっとそう思ってきた」
子供たちはみな独立したし、経済的にも、豊かになったわけではないがきょう食う米に困るようなことはなくなっていた。親族の中に、子供の進学などで経済的に困っている人がいれば、躊躇なく資金を送ったり、佐渡にある菩提寺が山門の改修をすると言えば、幾ばくかの金銭を送金していた。「いままでいろいろな人に助けられてきたんだから」。それは母の真心からの実感なんだろう。父が死んで一人暮らしになって、公営住宅の家賃が福祉的措置で数千円になれば、「そんな金額で住まわせてもらうわけにはいかない。年金者はそんなにお金も使わない。困っているのは若い人たちなのに」と言って正規の家賃を払い続けようとまでした。
世間的に見れば、どこにでもいるような薄幸の女性ではある。しかし、僕にとって若き日の母は、あくまでも神のような存在だったのだ。そしてその虚像を剥ぐかのように、神は人間になり、女になった。そしていま、僕の中では、一度、人間の女となった存在の中に、再び神を見る作業が行われている。泥中に咲く一輪の花として、その姿を心に焼き付けておきたいのだ。
その日を僕はどんな心で迎えるのだろう。僕はふっと妻を亡くした時の喪失感を思い出す。ただ、80歳を過ぎた親がこの世を去るのは自然の理であり、僕ももはや取り乱したりはしないだろう。しかし、ひとつだけ僕の人生の中で、一度も経験したことのないある種の感情を予感する。
それは、僕のたった一人の味方を失う切なさ、僕の最後の味方を失う寂寥感だ。ほかの誰も母には変わりえない。そのあと、僕は再び新しい孤独に耐えて生きていかねばならぬのだろう。
2008年08月02日
piece13 さくらさくら 妻の面影
piece13 さくらさくら 妻の面影
二十世紀が終わる。西暦2000年はミレニアムという言葉が流行り、それが単なる暦であっても、まるで特別な年であるかのように世間は浮かれていた。その年の桜は、4月3日に花吹雪のピークを迎えた。忘れはしない。その日が家内の命日になったからだ。桜の花がいっせいに散る風の中、閉ざされた病室の中で時は止まり、僕は医者が妻の臨終を告げる声を聞いた。時が再び動き出したのは、病院を後にして、見あげる空の中に桜の花がそのいのちを終え、ひらひらとちぢに舞い乱れるのを仰いだ時だった。
僕はまだ42歳だった。仕事においても、自信にあふれ、怖いものなど何もなく、僕は人生のピークを迎えていた。伴侶を失うということなどあり得ないことであり、とうてい受け入れがたい現実である年齢だったのだ。42歳という齢は。
釈尊は人生は苦しみであるという。肉体という不自由な物質世界に宿ることも、老いて自由を失っていくことも、病によって生命活動に支障をきたすことも、そしていつか自分がこの世を去るということも。
さらに釈尊は避けることのできない苦しみがあるという。愛する者とは別れ、人との関係において憎しみを抱き、求めるものは得られない、さらには肉体煩悩は理性に抗って止むことがない。
よくもまあ、ここまでシニカルに人生を透徹して凝視するものだと思わざるを得ない。
愛別離苦――どんな愛しいものでも別れがある。その言葉は僕には抗えない冷徹さを感じさせる。しかし、もしあのときその言葉が僕を優しく慰めていたら、僕は自分に負けて立ち上がれなかったかもしれない。家内が亡くなった後に刻まれる時が、優しい感情を持って僕に接していたら、僕は「あの時」から動くことができなかっただろうとも思えるのだ。僕はオプティミスト(楽観主義者)ではない。かといって、ペシミスト(悲観主義者)とも言いたくはない。その42歳からの歳月を刻む中で、ある意味、リアリストにならざるを得なかった(しかし、僕はその言葉に安易に「現実主義者」という日本語を充てたくもないのだ)。現実を静かに見つめ、あるがままに受け入れていくしかなかったのだ。
僕が29歳、家内は30歳、僕らは尼崎で結婚式を挙げた。高校時代は陸上でもっともハードといわれる400mで、近畿5位の記録を持っているような強靭な女性だった。しかし、選手時代の無理がたたり、出会った時には、日常生活にも支障をきたすぐらい、膝がボロボロにやられていた。神戸の三宮に呼び出し、結婚を申し込んだときに、彼女は一瞬、黙った後、落ち着いた声で
「一生動けなくなるかもしれない人間の気持ち、根岸さん、わかりますか」
と言った。僕は、彼女が何を言い出したのかよくわからなかった。しかし、その言葉を反芻するうちに、それが彼女の心の中を支配している現実の不安であることを悟った。一生、結婚もせずに一人で生きて行こうとしている覚悟の中に、僕が土足で上がり込んできたのだ。それは、「簡単に言わないでよ」という彼女の抵抗であっただろうし、土足で心の中に踏み込んできた僕に対する試しでもあったのだろう。
僕はまず彼女に対して自分という人間を明らかにせざるをなかった。当時、大阪で支局記者をしていた僕は数冊のスクラップブックを彼女に見せた。その頃の僕はまだ社会正義という言葉を実現することにヒューマニズムを感じ、それに陶酔できる若者だった。自分は常に弱者の側に立ち、強者がすべて悪に見えるような錯覚をしていたのだ。しかし、彼女の前に立った時、僕の理想はずいぶんと薄っぺらいものに見えて仕方がなかった。彼女の問いに対して何て答えたらウソのない自分でいられるのだろうか。
「あなたの気持ちはわかる」なんて言ったら偽善者にしか見えない。僕は無力で頼りない存在であっても、愛する人の前では正直な自分でいたかった。
「わかるわけないだろう。わからないから、少しでもわかろうとして努力するんじゃないか」
それは、29歳だった僕の精一杯の正直な答えだった。そのうえで彼女と人生を共にしようと思ったのだ。そして、彼女は初めて自分の人生を僕とともに生き、委ねる決意をしてくれたのだった。
子供がいなかった分、僕らは濃密な夫婦だった。よく笑い、けんかもし、時に僕が仕事に埋没し、日が変わってから帰宅するようなその時でも、家内は起きて僕の帰りを待っていた。家庭と職場というまったく別の空間にいても彼女は僕のたった一人の同志だった。
あれから十余年。「あり得ない」42歳から僕も50半ばにさしかかって、そんなことが「あり得る」年齢になった。僕だけが特別な人生である必要もなくなった。彼女と過ごした13年が、短かったのか、長かったのか。思えば、十分に幸せすぎる時を共有したと思えるようにもなった。僕はすべてが過去の出来事になったことを自覚した。過去は風化させなければ、いつまでも苦しみの刷り込みを繰り返すものなのだ。僕の心の中に彼女はまだ生きている。これは消えることはないだろう。僕の歴史の一部だからだ。しかし、僕はもうあの時の悲しみを悲しまない。人生だもの。悲しいことだって辛いことだってある。そんなもの、すべてを僕の人生として背負ってしまえば、あとは前に向かって歩くだけなのだ。愛ですら思い出としてしか残らない。一つの思い出を背負いながら、僕は新しい歴史の一ページを歩いていくのだ。それが僕の等身大の人生と言えるように歩いていくのだ。もっともっと辛いことがあったとしても、僕は飄々と歩いていくのだ。
それでも――。毎年訪れる春、桜の花が散りゆく姿を眺めていると、胸がかすかに疼くのはなぜなのだろう。
二十世紀が終わる。西暦2000年はミレニアムという言葉が流行り、それが単なる暦であっても、まるで特別な年であるかのように世間は浮かれていた。その年の桜は、4月3日に花吹雪のピークを迎えた。忘れはしない。その日が家内の命日になったからだ。桜の花がいっせいに散る風の中、閉ざされた病室の中で時は止まり、僕は医者が妻の臨終を告げる声を聞いた。時が再び動き出したのは、病院を後にして、見あげる空の中に桜の花がそのいのちを終え、ひらひらとちぢに舞い乱れるのを仰いだ時だった。
僕はまだ42歳だった。仕事においても、自信にあふれ、怖いものなど何もなく、僕は人生のピークを迎えていた。伴侶を失うということなどあり得ないことであり、とうてい受け入れがたい現実である年齢だったのだ。42歳という齢は。
釈尊は人生は苦しみであるという。肉体という不自由な物質世界に宿ることも、老いて自由を失っていくことも、病によって生命活動に支障をきたすことも、そしていつか自分がこの世を去るということも。
さらに釈尊は避けることのできない苦しみがあるという。愛する者とは別れ、人との関係において憎しみを抱き、求めるものは得られない、さらには肉体煩悩は理性に抗って止むことがない。
よくもまあ、ここまでシニカルに人生を透徹して凝視するものだと思わざるを得ない。
愛別離苦――どんな愛しいものでも別れがある。その言葉は僕には抗えない冷徹さを感じさせる。しかし、もしあのときその言葉が僕を優しく慰めていたら、僕は自分に負けて立ち上がれなかったかもしれない。家内が亡くなった後に刻まれる時が、優しい感情を持って僕に接していたら、僕は「あの時」から動くことができなかっただろうとも思えるのだ。僕はオプティミスト(楽観主義者)ではない。かといって、ペシミスト(悲観主義者)とも言いたくはない。その42歳からの歳月を刻む中で、ある意味、リアリストにならざるを得なかった(しかし、僕はその言葉に安易に「現実主義者」という日本語を充てたくもないのだ)。現実を静かに見つめ、あるがままに受け入れていくしかなかったのだ。
僕が29歳、家内は30歳、僕らは尼崎で結婚式を挙げた。高校時代は陸上でもっともハードといわれる400mで、近畿5位の記録を持っているような強靭な女性だった。しかし、選手時代の無理がたたり、出会った時には、日常生活にも支障をきたすぐらい、膝がボロボロにやられていた。神戸の三宮に呼び出し、結婚を申し込んだときに、彼女は一瞬、黙った後、落ち着いた声で
「一生動けなくなるかもしれない人間の気持ち、根岸さん、わかりますか」
と言った。僕は、彼女が何を言い出したのかよくわからなかった。しかし、その言葉を反芻するうちに、それが彼女の心の中を支配している現実の不安であることを悟った。一生、結婚もせずに一人で生きて行こうとしている覚悟の中に、僕が土足で上がり込んできたのだ。それは、「簡単に言わないでよ」という彼女の抵抗であっただろうし、土足で心の中に踏み込んできた僕に対する試しでもあったのだろう。
僕はまず彼女に対して自分という人間を明らかにせざるをなかった。当時、大阪で支局記者をしていた僕は数冊のスクラップブックを彼女に見せた。その頃の僕はまだ社会正義という言葉を実現することにヒューマニズムを感じ、それに陶酔できる若者だった。自分は常に弱者の側に立ち、強者がすべて悪に見えるような錯覚をしていたのだ。しかし、彼女の前に立った時、僕の理想はずいぶんと薄っぺらいものに見えて仕方がなかった。彼女の問いに対して何て答えたらウソのない自分でいられるのだろうか。
「あなたの気持ちはわかる」なんて言ったら偽善者にしか見えない。僕は無力で頼りない存在であっても、愛する人の前では正直な自分でいたかった。
「わかるわけないだろう。わからないから、少しでもわかろうとして努力するんじゃないか」
それは、29歳だった僕の精一杯の正直な答えだった。そのうえで彼女と人生を共にしようと思ったのだ。そして、彼女は初めて自分の人生を僕とともに生き、委ねる決意をしてくれたのだった。
子供がいなかった分、僕らは濃密な夫婦だった。よく笑い、けんかもし、時に僕が仕事に埋没し、日が変わってから帰宅するようなその時でも、家内は起きて僕の帰りを待っていた。家庭と職場というまったく別の空間にいても彼女は僕のたった一人の同志だった。
あれから十余年。「あり得ない」42歳から僕も50半ばにさしかかって、そんなことが「あり得る」年齢になった。僕だけが特別な人生である必要もなくなった。彼女と過ごした13年が、短かったのか、長かったのか。思えば、十分に幸せすぎる時を共有したと思えるようにもなった。僕はすべてが過去の出来事になったことを自覚した。過去は風化させなければ、いつまでも苦しみの刷り込みを繰り返すものなのだ。僕の心の中に彼女はまだ生きている。これは消えることはないだろう。僕の歴史の一部だからだ。しかし、僕はもうあの時の悲しみを悲しまない。人生だもの。悲しいことだって辛いことだってある。そんなもの、すべてを僕の人生として背負ってしまえば、あとは前に向かって歩くだけなのだ。愛ですら思い出としてしか残らない。一つの思い出を背負いながら、僕は新しい歴史の一ページを歩いていくのだ。それが僕の等身大の人生と言えるように歩いていくのだ。もっともっと辛いことがあったとしても、僕は飄々と歩いていくのだ。
それでも――。毎年訪れる春、桜の花が散りゆく姿を眺めていると、胸がかすかに疼くのはなぜなのだろう。
2008年08月01日
piece14 僕らの人生は幻か 最後に残るのは記憶という名の実体
piece14 僕らの人生は幻か 最後に残るのは記憶という名の実体
「なあ、夕飯、お好みでいい?」
「え?お好み焼きはおやつだろ。ご飯に代わりにはならないよ」
「なんでやのん。じゅうぶん夕ご飯やんか」
東京生まれ東京育ちの僕と、尼崎生まれ尼崎育ちの家内との間には、当然、文化摩擦があった。関西人であれば、家内の意見は何ら違和感がなく、僕がとてもわがままな亭主に見えることだろう。しかし、東京の人間であれば立場はまったく逆になるはずだ。
「なあ、豚小間でいいから、豚肉のカレーつくってよ」
「いやや、何でカレーに豚を入れなあかんねん。カレーは牛や。百歩譲ってもかしわやな。豚はちょっとランクが落ちるねん」
「そんな。君、お好み焼きには豚肉入れるじゃないか」
「あれはいいねん」
まったく些細なことではあるものの、それは双方譲れぬ言い分であった。加えて家内の場合、両親が共に沖縄県名護市の汀間出身であり、関西文化の底流に根強く沖縄の文化が根付いており、これが話を余計にややこしくさせるのだった。しかし、そのややこしい掛けあいが煩わしいかといえば、僕らはそれを楽しんでいた感もあり、そういう文化の違いは我が家に咲いた初めて見る花のようなものでもあった。
ある日、家内は「あんなあ、私、通信の大学を受けてみようと思うんやけど」と言って、新聞広告を持ってきた。三人兄弟の長女、大学に行きたくても、親はない袖は振れなかった。学問も地盤もなかった両親にとって、その生活が決して楽ではなかったことは、自分の両親を見ていても十分に想像がついた。ましてや、家内の後には妹と弟が控えている。青春時代に断念した夢を、40歳を過ぎて納得できる形でケリをつけようとしているのだ。足が不自由であった家内のただひとつの心配は、夏場に通学が必要であるということだった。
「いいがな。そんなん、俺が車で送ってやるよ」
「仕事はどうすんのん」
「そんなの適当な理由をつければいいがな。なんだったら事情は話してもいいよ」
そもそも僕が車の免許を取ったのは、障害者手帳を持っていた家内に「足」が必要だと思ったからで、もっともいざ免許を取ってしまえば、僕の中の騎馬民族の本性が覚醒し、休みのたびにあちこちと遠距離を走りまわる生活に変容してしまった。時として、その行動範囲の広さに家内のほうが辟易するということもあったはずだ。
ワーカホリックだった僕は、せめて盆暮れだけは、家内にわがままをさせようと、栃木時代などは早めに飛行機で福島空港から伊丹に飛ばし(家内の実家は伊丹からタクシー圏内だった)、一、二週間後に僕が尼崎まで車で迎えに行くという離れ業をやってのけた。「自分の実家に年に二回、二週間も帰れる嫁さんなんてほかにいないぞ」などという軽口を叩きながら。
僕らは、子供がいなかった分、親である部分はまったく欠落しているが、夫婦であることにかけてはふつうの家庭よりもお互いの距離は短かった。末っ子で育った僕は家族に愛されることには慣れていても、家族のために身を粉にすることにはあまり慣れていなかった。でも、結婚した時、家内は自分の健康問題でそれなりの覚悟を持って嫁いできた経緯があるし、外出の際の駅への送迎や休日の買い物など、家内を気遣うことは僕には自然なほど幸せなことだったのだ。こう書けば典型的な自己満足型のナルシストに見られる危険性を感じなくもないが、誤解を恐れずに言うならば、それが僕の「幸福のかたち」だったということだ。
結婚して十三年間の間に、僕の仕事の都合で七回も引っ越した。煩わしい作業ではあったが、七つの場所で過ごした環境の違う生活は、僕らの人生をより変化に富んだものにしてくれた。
大阪のマンションの10階の部屋のサンルームから二人で眺めた夜景――堺に点々と続くハイウェイのオレンジの灯を僕は懐かしく思い出す。
休みの日に、奥日光や尾瀬周辺の高原でイオンシャワーを浴びながら転寝をしたまろやかな時間。
一番の田舎暮らしだった栃木時代、些細なことで喧嘩になり、僕は夜中に家を出て車で訳もなく北上した(こういう時でも、僕は妻の体を慮って「出ていけ」とは言えない。自分が出ていくしかないのだ)。一般道をやみくもに進み、仙台市内に入って夜が明け、半田屋という宮城ではちょっと有名な安くて腹いっぱいの定食屋で、さんまだの塩辛だの海の幸で腹いっぱい丼飯を食い、そこを折り返しとして引き返した。途中、家内から電話が入る。
「あんた、いまどこ?」
「福島だよ」
「何してんねんな。高速乗って、早く帰ってきいや」
何もなかったように語り掛けてくる不自然な平静さ。お互い、まだ不満の余韻は残るものの、一晩を経て、かなりクールダウンもしている。僕は一応、仲直りの貢物として季節のフルーツを見繕ってお土産にする。家に帰ると、僕は何事もなかったように、家内にお土産を渡し、ベッドに横たわる。家内が隣に纏わりついてくる。実のところ、夜も含めて半日も車を走らせてきて、僕自身はまだ、納得できない気持ちが残っていたのだ。
「なあ、これからこんなこと、何回くらいあるんやろな」
「知らねえよ。お前が怒らすから悪いんだぞ」
「ねえ、あなた。今度生まれ変わっても私と結婚する?」
どこの夫婦も一度は交わすであろうよくある会話だ。しかし、僕は当たり前に「うん」と答えるのがシャクで黙ってみた。即答しない僕に、妻の顔に不安が走る。
「夫婦じゃなくていいよ。君を360度愛そうとすると、親もやらなければいけないし、子供もやらなければいけないからな」
「いけずやなあ」
不満の色を少し残した妻の横顔に、僕は留飲を下げる。くそ意地の悪い男だ。
ケンカも世間並みにしたけれど、僕は幸せだった。
僕はいつまでも彼女を大切にするだろうし、彼女は僕を信じてくれるのだろう。こんな幸せがいつまでも続くといいなと思った。いや続くものだと信じていた。
しかし、結局は、この幸せは永遠に続くし、巡って来る未来は幸福なものに決っているという錯覚の中でまどろんでいただけだったのだ。若さの驕りというべきか、生命の驕りというべきか、この世は仮の世界だというように、現実なんてある時、いとも簡単に壊れてしまうものだ。
夢を見ているのか。夢から覚めたのか。独りぼっちになった僕が、休日の朝、目を覚ます。
「なあ、きょう、どこに買い物行く?」
僕は、もうその言葉を吐くことができない。僕は家内に気を遣うことで満たされていたのだと知った。そして、時折、涌いてくる後悔。なぜ、あの時、「何度、生まれ変わっても夫婦がいいな」と言わなかったのか。その言葉を言っていたら、家内はもっともっと喜んだだろう。そこにあった一点の悪意のために、僕はどれほど自分を責めただろう。
来年は十三回忌を迎える。僕にとって、すべては通り過ぎていった幻ような記憶になりつつある――。
「なあ、夕飯、お好みでいい?」
「え?お好み焼きはおやつだろ。ご飯に代わりにはならないよ」
「なんでやのん。じゅうぶん夕ご飯やんか」
東京生まれ東京育ちの僕と、尼崎生まれ尼崎育ちの家内との間には、当然、文化摩擦があった。関西人であれば、家内の意見は何ら違和感がなく、僕がとてもわがままな亭主に見えることだろう。しかし、東京の人間であれば立場はまったく逆になるはずだ。
「なあ、豚小間でいいから、豚肉のカレーつくってよ」
「いやや、何でカレーに豚を入れなあかんねん。カレーは牛や。百歩譲ってもかしわやな。豚はちょっとランクが落ちるねん」
「そんな。君、お好み焼きには豚肉入れるじゃないか」
「あれはいいねん」
まったく些細なことではあるものの、それは双方譲れぬ言い分であった。加えて家内の場合、両親が共に沖縄県名護市の汀間出身であり、関西文化の底流に根強く沖縄の文化が根付いており、これが話を余計にややこしくさせるのだった。しかし、そのややこしい掛けあいが煩わしいかといえば、僕らはそれを楽しんでいた感もあり、そういう文化の違いは我が家に咲いた初めて見る花のようなものでもあった。
ある日、家内は「あんなあ、私、通信の大学を受けてみようと思うんやけど」と言って、新聞広告を持ってきた。三人兄弟の長女、大学に行きたくても、親はない袖は振れなかった。学問も地盤もなかった両親にとって、その生活が決して楽ではなかったことは、自分の両親を見ていても十分に想像がついた。ましてや、家内の後には妹と弟が控えている。青春時代に断念した夢を、40歳を過ぎて納得できる形でケリをつけようとしているのだ。足が不自由であった家内のただひとつの心配は、夏場に通学が必要であるということだった。
「いいがな。そんなん、俺が車で送ってやるよ」
「仕事はどうすんのん」
「そんなの適当な理由をつければいいがな。なんだったら事情は話してもいいよ」
そもそも僕が車の免許を取ったのは、障害者手帳を持っていた家内に「足」が必要だと思ったからで、もっともいざ免許を取ってしまえば、僕の中の騎馬民族の本性が覚醒し、休みのたびにあちこちと遠距離を走りまわる生活に変容してしまった。時として、その行動範囲の広さに家内のほうが辟易するということもあったはずだ。
ワーカホリックだった僕は、せめて盆暮れだけは、家内にわがままをさせようと、栃木時代などは早めに飛行機で福島空港から伊丹に飛ばし(家内の実家は伊丹からタクシー圏内だった)、一、二週間後に僕が尼崎まで車で迎えに行くという離れ業をやってのけた。「自分の実家に年に二回、二週間も帰れる嫁さんなんてほかにいないぞ」などという軽口を叩きながら。
僕らは、子供がいなかった分、親である部分はまったく欠落しているが、夫婦であることにかけてはふつうの家庭よりもお互いの距離は短かった。末っ子で育った僕は家族に愛されることには慣れていても、家族のために身を粉にすることにはあまり慣れていなかった。でも、結婚した時、家内は自分の健康問題でそれなりの覚悟を持って嫁いできた経緯があるし、外出の際の駅への送迎や休日の買い物など、家内を気遣うことは僕には自然なほど幸せなことだったのだ。こう書けば典型的な自己満足型のナルシストに見られる危険性を感じなくもないが、誤解を恐れずに言うならば、それが僕の「幸福のかたち」だったということだ。
結婚して十三年間の間に、僕の仕事の都合で七回も引っ越した。煩わしい作業ではあったが、七つの場所で過ごした環境の違う生活は、僕らの人生をより変化に富んだものにしてくれた。
大阪のマンションの10階の部屋のサンルームから二人で眺めた夜景――堺に点々と続くハイウェイのオレンジの灯を僕は懐かしく思い出す。
休みの日に、奥日光や尾瀬周辺の高原でイオンシャワーを浴びながら転寝をしたまろやかな時間。
一番の田舎暮らしだった栃木時代、些細なことで喧嘩になり、僕は夜中に家を出て車で訳もなく北上した(こういう時でも、僕は妻の体を慮って「出ていけ」とは言えない。自分が出ていくしかないのだ)。一般道をやみくもに進み、仙台市内に入って夜が明け、半田屋という宮城ではちょっと有名な安くて腹いっぱいの定食屋で、さんまだの塩辛だの海の幸で腹いっぱい丼飯を食い、そこを折り返しとして引き返した。途中、家内から電話が入る。
「あんた、いまどこ?」
「福島だよ」
「何してんねんな。高速乗って、早く帰ってきいや」
何もなかったように語り掛けてくる不自然な平静さ。お互い、まだ不満の余韻は残るものの、一晩を経て、かなりクールダウンもしている。僕は一応、仲直りの貢物として季節のフルーツを見繕ってお土産にする。家に帰ると、僕は何事もなかったように、家内にお土産を渡し、ベッドに横たわる。家内が隣に纏わりついてくる。実のところ、夜も含めて半日も車を走らせてきて、僕自身はまだ、納得できない気持ちが残っていたのだ。
「なあ、これからこんなこと、何回くらいあるんやろな」
「知らねえよ。お前が怒らすから悪いんだぞ」
「ねえ、あなた。今度生まれ変わっても私と結婚する?」
どこの夫婦も一度は交わすであろうよくある会話だ。しかし、僕は当たり前に「うん」と答えるのがシャクで黙ってみた。即答しない僕に、妻の顔に不安が走る。
「夫婦じゃなくていいよ。君を360度愛そうとすると、親もやらなければいけないし、子供もやらなければいけないからな」
「いけずやなあ」
不満の色を少し残した妻の横顔に、僕は留飲を下げる。くそ意地の悪い男だ。
ケンカも世間並みにしたけれど、僕は幸せだった。
僕はいつまでも彼女を大切にするだろうし、彼女は僕を信じてくれるのだろう。こんな幸せがいつまでも続くといいなと思った。いや続くものだと信じていた。
しかし、結局は、この幸せは永遠に続くし、巡って来る未来は幸福なものに決っているという錯覚の中でまどろんでいただけだったのだ。若さの驕りというべきか、生命の驕りというべきか、この世は仮の世界だというように、現実なんてある時、いとも簡単に壊れてしまうものだ。
夢を見ているのか。夢から覚めたのか。独りぼっちになった僕が、休日の朝、目を覚ます。
「なあ、きょう、どこに買い物行く?」
僕は、もうその言葉を吐くことができない。僕は家内に気を遣うことで満たされていたのだと知った。そして、時折、涌いてくる後悔。なぜ、あの時、「何度、生まれ変わっても夫婦がいいな」と言わなかったのか。その言葉を言っていたら、家内はもっともっと喜んだだろう。そこにあった一点の悪意のために、僕はどれほど自分を責めただろう。
来年は十三回忌を迎える。僕にとって、すべては通り過ぎていった幻ような記憶になりつつある――。
2008年08月01日
piece15 五十歳を過ぎたら生き方を変えろ
piece15 五十歳を過ぎたら生き方を変えろ
灰にならぬものを追い求めるのだ
人には、一生のうちで忘れることができない風景がいくつかある。もし、人が死んで、心だけがあの世に持って還れるものだとしたら、人は天国でその心象風景に包まれて生きていくのかもしれない。
僕の眼に焼きついて消えることのない一枚は、四十二歳の春に、艶やかに咲いて、空一面に散っていった桜の風景だ。満開の花が一枚一枚の花びらになって別れ、あざやかに舞いながら空をうめる。僕の心の中のスクリーンには、永遠に時が泊まってしまったかのように、桜はいまも舞い続けている。
日本人は散る桜に人の生死を観る。その桜を見つめていた僕は、数十分前に妻の臨終を看取ったばかりだった。くも膜下出血で、妻はその日、四十三歳の短い生涯を終えた。
若かった僕にとって、妻を失うということは予想だにしない事件だった。映画やドラマで見たような万に一つのストーリーが自分を襲っているのだ。みんなは普通の人生を生きているのに、自分はそういう道をもう歩けないのだと思った。そして、現実がどこにあるのかわからなくなる。
カウンセリングをしている友人が、「お前はうつ病の危険性がある。まだ、症状が出ていないだけで、状況が完全にうつ的傾向であることは間違いないんだ。だから、これ以上、絶対に無理をするな」と何度も忠告した。
しかし、仕事をしている間だけが何も考えずに済む時間だった。むしろ辛かったのは、朝から何もすることがない休日だった。家内がいれば、今日は買い物に連れて行ってやろう、一緒に海を見に行こう、そんなことを思ったはずなのに。一人で生きるというのは寂しいものだ。人のために何かをしたいと思える生き方は、ずいぶん幸福なものなのだなと僕はあらためて思った。
僕は死んだら無に帰るなどという思想に与しないし、あの世の存在は当たり前のように信じている。妻は天国で幸福に生きていると本当に信じている。それでも、現実の生活に妻がいなくなったという「喪失感」だけがなかなか拭えなかった。それは何の脈絡もなく突然、襲ってくるのだ。
例えば、車で街を走っているときに、何気なく路地に入ったその瞬間、ふと自分が一人なんだという念いが生まれ、それがどんどん拡大し、やがて僕の心に収まりきらなくなるのだ。そして、ハンドルを握りながら、涙がぽろぽろ流れてきて止まらなくなる。女々しいなと思いながら、それを止める手立てさえないのだ。
そんな時は、車をやみくもに駈け続けた。気が付くと長野道を突っ切った日本海・直江津の海に沈む夕陽を見ていた。あるときは、伊豆の恋人岬で、恋人たちの奏でる鐘の音を聞きながらやはり黄金色に染まった夕景を眺めたりしていたのである。
それが突発的な病死であったとしても、男には愛する人を護ってやれなかったという悔いが残るものだ。そして、もっと愛せたのではないかと自分を追い詰めていくのだ。そんな感情を逆なでするように、お節介にも、僕自身に問題があったかのように揶揄する人間もいた。
「余計な御世話だ。おまえに言われたくないよ」。
そう心の中で反駁したが、そういう人間の無神経なひとことは、あとからボディブローのように効いてくるのだ。人を蹴落としたり、責任をすぐに人に転嫁するような、そういう人間関係も、僕はほとほと嫌になって、三年後、沖縄に移住した。
沖縄・名護は家内の両親の郷里だ。二人で最後に旅行をした思い出の地でもある。沖縄に一人移り住んだ僕は、やがて、名護湾を見下ろす丘の上に庵を結び、毎日のように、海を眺めながら、時間に耐えた。
沖縄のあのエメラルドグリーンの海にはさすがに癒す力があるようだ。僕は海を見ながら多くのことを忘れていった。悲しみや無力感、後悔。つらかった思い出が薄皮をはぐように僕の中から消えていき、二人の幸福だった思い出が額縁の絵のように蘇ってきて、記憶を入れ替えていった。
沖縄の海は、僕にとって癒しの海であるばかりか哲学の海でもあった。人間とは何なのか、人生とは何なのか。生きる意味とは。人と社会との関わりは。朝起きて、背中からさしてくる順光の光に照らされて色づいていく海を見ながら、僕は静寂の時間を楽しむ。海との対話は、僕の一人問答の時間でもあった。
人は何を求めて生きていくのか。その真なる意味はいまだ答えを見出しきれてはいないのだろう。ただ、いくつか断片としてわかったことはある。
まず、人間は必ず死ぬということだ。それは当たり前のことではあるが、死を思い、死を前提として人生を生きている人など、ほとんどいない。むしろ、人は今という幸福が永遠に続くような錯覚の中にまどろみながら生きているのだ。もちろん、だからこそ、明るい未来を胸に人は生きていけるわけだが。しかし、もしかしたらそのまどろみは、人間が生きていることの意味を見失わせる麻酔のようなものなのかもしれないのだ。この世で為すべき使命を終えたときには、僕たちは還るべき世界に還るしかないのだ。
そして、この世には、持って還れるものと還れないものがあるということだ。家内の遺品を整理していたら、ミック―マウスのブリキ缶が出てきた。ガラクタのような記念品と共に、一冊の日記が出てきた。そこには、家内の結婚前の恋物語が拙い字でつづられていた。もちろん、本人から結婚前の恋愛話は聞かされていたので、それはほほえましくもあるのだが、そんなに後生大事に抱えていたものが、結局、この世に置き去りにするしかないのだ。この世から持って還れるものとは、精神であるとか、心であるとか、そのひと本人に付随するものだけであって、この世のものはこの世に置いていくしかない。
結局、人生とは「残された時間」のことなのだ。僕が死ぬのが、明日なのか、十年後なのかは誰もわからない。しかし、僕はいつか死ぬ。必ず死ぬ。その日まで、僕はこの時間を使って何をするのか。これが少なくても僕にとっての人生の意味なのだ。
五十歳を過ぎて、ようやく、僕は妻の死や人生の意味を冷静に見つめられるようになったような気がする。僕にとって四十代というのはまさに醸成の時間だった。その間、輝いて見えた多くのものが色褪せ、今まで価値も感じなかったものが、闇の中から輝きを持って浮かび上がってきたのだ。ジグソーパズルのように、この世界をどう見るか、この世界にいる僕をどう位置付けるか、いくつものピースがだんだんと僕という人間の人生を、一枚の絵として形作っていくような気がした。
僕はこの八年間、何を醸成してきたのだろう。僕はもう一度、表現者と生きてみようと思った。人間の幸福というものを、目に見えるかたちとして表現したいのだ。そう心に決めた時、まさに人生の覚悟のようなものが生まれてきた。
僕は僕の一人合言葉として、いつもぶつぶつつぶやいているのだ。
「五十歳を過ぎたら、生き方を変えろ。
いつ死ぬかわからないのに、もうこの世にはしがみつけないよ。
灰にならぬものを追い求めよ」。
家内を見送ったあの日、天に舞っていた無数の桜の花びらは、いま僕の心の中で、僕のために舞っているのだ。
灰にならぬものを追い求めるのだ
人には、一生のうちで忘れることができない風景がいくつかある。もし、人が死んで、心だけがあの世に持って還れるものだとしたら、人は天国でその心象風景に包まれて生きていくのかもしれない。
僕の眼に焼きついて消えることのない一枚は、四十二歳の春に、艶やかに咲いて、空一面に散っていった桜の風景だ。満開の花が一枚一枚の花びらになって別れ、あざやかに舞いながら空をうめる。僕の心の中のスクリーンには、永遠に時が泊まってしまったかのように、桜はいまも舞い続けている。
日本人は散る桜に人の生死を観る。その桜を見つめていた僕は、数十分前に妻の臨終を看取ったばかりだった。くも膜下出血で、妻はその日、四十三歳の短い生涯を終えた。
若かった僕にとって、妻を失うということは予想だにしない事件だった。映画やドラマで見たような万に一つのストーリーが自分を襲っているのだ。みんなは普通の人生を生きているのに、自分はそういう道をもう歩けないのだと思った。そして、現実がどこにあるのかわからなくなる。
カウンセリングをしている友人が、「お前はうつ病の危険性がある。まだ、症状が出ていないだけで、状況が完全にうつ的傾向であることは間違いないんだ。だから、これ以上、絶対に無理をするな」と何度も忠告した。
しかし、仕事をしている間だけが何も考えずに済む時間だった。むしろ辛かったのは、朝から何もすることがない休日だった。家内がいれば、今日は買い物に連れて行ってやろう、一緒に海を見に行こう、そんなことを思ったはずなのに。一人で生きるというのは寂しいものだ。人のために何かをしたいと思える生き方は、ずいぶん幸福なものなのだなと僕はあらためて思った。
僕は死んだら無に帰るなどという思想に与しないし、あの世の存在は当たり前のように信じている。妻は天国で幸福に生きていると本当に信じている。それでも、現実の生活に妻がいなくなったという「喪失感」だけがなかなか拭えなかった。それは何の脈絡もなく突然、襲ってくるのだ。
例えば、車で街を走っているときに、何気なく路地に入ったその瞬間、ふと自分が一人なんだという念いが生まれ、それがどんどん拡大し、やがて僕の心に収まりきらなくなるのだ。そして、ハンドルを握りながら、涙がぽろぽろ流れてきて止まらなくなる。女々しいなと思いながら、それを止める手立てさえないのだ。
そんな時は、車をやみくもに駈け続けた。気が付くと長野道を突っ切った日本海・直江津の海に沈む夕陽を見ていた。あるときは、伊豆の恋人岬で、恋人たちの奏でる鐘の音を聞きながらやはり黄金色に染まった夕景を眺めたりしていたのである。
それが突発的な病死であったとしても、男には愛する人を護ってやれなかったという悔いが残るものだ。そして、もっと愛せたのではないかと自分を追い詰めていくのだ。そんな感情を逆なでするように、お節介にも、僕自身に問題があったかのように揶揄する人間もいた。
「余計な御世話だ。おまえに言われたくないよ」。
そう心の中で反駁したが、そういう人間の無神経なひとことは、あとからボディブローのように効いてくるのだ。人を蹴落としたり、責任をすぐに人に転嫁するような、そういう人間関係も、僕はほとほと嫌になって、三年後、沖縄に移住した。
沖縄・名護は家内の両親の郷里だ。二人で最後に旅行をした思い出の地でもある。沖縄に一人移り住んだ僕は、やがて、名護湾を見下ろす丘の上に庵を結び、毎日のように、海を眺めながら、時間に耐えた。
沖縄のあのエメラルドグリーンの海にはさすがに癒す力があるようだ。僕は海を見ながら多くのことを忘れていった。悲しみや無力感、後悔。つらかった思い出が薄皮をはぐように僕の中から消えていき、二人の幸福だった思い出が額縁の絵のように蘇ってきて、記憶を入れ替えていった。
沖縄の海は、僕にとって癒しの海であるばかりか哲学の海でもあった。人間とは何なのか、人生とは何なのか。生きる意味とは。人と社会との関わりは。朝起きて、背中からさしてくる順光の光に照らされて色づいていく海を見ながら、僕は静寂の時間を楽しむ。海との対話は、僕の一人問答の時間でもあった。
人は何を求めて生きていくのか。その真なる意味はいまだ答えを見出しきれてはいないのだろう。ただ、いくつか断片としてわかったことはある。
まず、人間は必ず死ぬということだ。それは当たり前のことではあるが、死を思い、死を前提として人生を生きている人など、ほとんどいない。むしろ、人は今という幸福が永遠に続くような錯覚の中にまどろみながら生きているのだ。もちろん、だからこそ、明るい未来を胸に人は生きていけるわけだが。しかし、もしかしたらそのまどろみは、人間が生きていることの意味を見失わせる麻酔のようなものなのかもしれないのだ。この世で為すべき使命を終えたときには、僕たちは還るべき世界に還るしかないのだ。
そして、この世には、持って還れるものと還れないものがあるということだ。家内の遺品を整理していたら、ミック―マウスのブリキ缶が出てきた。ガラクタのような記念品と共に、一冊の日記が出てきた。そこには、家内の結婚前の恋物語が拙い字でつづられていた。もちろん、本人から結婚前の恋愛話は聞かされていたので、それはほほえましくもあるのだが、そんなに後生大事に抱えていたものが、結局、この世に置き去りにするしかないのだ。この世から持って還れるものとは、精神であるとか、心であるとか、そのひと本人に付随するものだけであって、この世のものはこの世に置いていくしかない。
結局、人生とは「残された時間」のことなのだ。僕が死ぬのが、明日なのか、十年後なのかは誰もわからない。しかし、僕はいつか死ぬ。必ず死ぬ。その日まで、僕はこの時間を使って何をするのか。これが少なくても僕にとっての人生の意味なのだ。
五十歳を過ぎて、ようやく、僕は妻の死や人生の意味を冷静に見つめられるようになったような気がする。僕にとって四十代というのはまさに醸成の時間だった。その間、輝いて見えた多くのものが色褪せ、今まで価値も感じなかったものが、闇の中から輝きを持って浮かび上がってきたのだ。ジグソーパズルのように、この世界をどう見るか、この世界にいる僕をどう位置付けるか、いくつものピースがだんだんと僕という人間の人生を、一枚の絵として形作っていくような気がした。
僕はこの八年間、何を醸成してきたのだろう。僕はもう一度、表現者と生きてみようと思った。人間の幸福というものを、目に見えるかたちとして表現したいのだ。そう心に決めた時、まさに人生の覚悟のようなものが生まれてきた。
僕は僕の一人合言葉として、いつもぶつぶつつぶやいているのだ。
「五十歳を過ぎたら、生き方を変えろ。
いつ死ぬかわからないのに、もうこの世にはしがみつけないよ。
灰にならぬものを追い求めよ」。
家内を見送ったあの日、天に舞っていた無数の桜の花びらは、いま僕の心の中で、僕のために舞っているのだ。
2008年07月07日
epilogue
epilogue
人間は何のために生きるのだろうか。
そんな青臭い問いを、十代の僕はいつもつぶやいていた。
大学の学部専攻でも、西洋哲学にするか、東洋哲学にするか、はたまた仏教学にするか、キリスト教神学かで悩み続け、結局、人間が介在する学問としての文学を選ぶことになった。卒業後も、研究を続けるのかどうかの選択の中で、常に人間と向き合うために野に下り、新聞記者となった。僕はいつも人間を見てきたのだ。
それはなぜかと言えば、幸福を創造することこそ、人間が生きていることの意味なのではないかという答えを、かなり早い時期から予感していたからだと思う。戦後の貧困の中で育てられた世代としては、「人に迷惑をかけなければ、何をやっても勝手だ」という昨今の感覚はまったく理解できず、学も教養もない親から愚直にてらいもなく「人さまのため」「社会のため」と教訓を聞かされ続けた魂が、いくつになっても息づいている。
五十歳を過ぎて、自分が予感していたこの答えを確信に変えていく過程で、僕の中で、家族を愛するだけで、僕は自分の人生を終えてはいけないという思いが強くなってきた。もちろん、それは家族への愛情を否定するものではない。しかし、家族を愛するというのは人として生まれた以上、当然のことであって、それが人生のすべてというにはあまりにも閉ざされた感がないでもない。もし生きるということに成長という尺度があるとするならば、家族以外の人、自分とは直接関係のない人に、どのような幸福を提供できるかということがあげられるのではないか。わかりやすく言えば社会性を持った幸福の創造ということだ。
僕は年齢に対する責任として、この言葉を受け入れていかなければいけないのだろう。そのために、家族とともに生きた人生に、答えを出しておきたいというのが、本稿の動機となっていいだろう。
もしかしたらこの先、部屋の片隅に、ジグソーパズルの余ったピースが見つかることもあるかもしれない。その時は補稿として、収録することとして、卒業論文の第一章として、とりあえずここにペンを置く。
2009年9月
根岸 冬生
旅先にて。甲斐の国より


